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アメリカで会話の噛み合わないロシア人とわたし。



大学のクラスに、ロシア人の友達がいた。

私たちは、お互いを驚かすのが好きだった。
その日も、トイレから帰ってきた私を、彼女は驚かそうとしていた。私はそのことに気付き、逆に彼女を驚かせた。彼女は、声をあげて飛び跳ねた。

彼女は笑いながら言った。
「なんで私がいるってわかったの?!」と。

私は返した。
「今日は眠いよ〜。」


……?

完全に会話がなりたっていない。意味不明すぎる。19歳、しっかり会話はできる年齢だ。


時は戻り、18歳の夏。
私はこれまでの人生で最も大きな決断をした。

「お母さん、私、アメリカの大学に行く。」


高校は、都内の進学校に通っていた。入学式の直後に担任からは大学進学について話された。


「なんでこの人はもう大学の話をしているんだろう?なんで同じクラスの人たちは進路をすでにスラスラ記入しているんだろう?」

ワンダーランドにでも迷い込んだのかと錯覚した、高校1年生の4月。

時は瞬く間に過ぎ、あっという間に3年生の夏になった。大学受験に向けて、学校も生徒も本気になりだす頃。

私には全く火がつかない。なぜか。
大学でしたいことがわからないからだ。


何かのためでないと頑張れない性格だった。

進学校にも関わらず勉強をしてその高校に入ったのは、その高校で絶対にやりたいことがあったから。明確な目標があったのだ。

けれど、"その大学に入らないとできない何か"も、"何かをしたいと思う特別な大学"も今の私にはない。


悩みに悩んだある日、降ってきた考え。
まさに天の声が聞こえたような感覚だった。
狂っていると思われるかもしれないが、メルヘンなタイプではない。

「日本にないなら、海外に行こう。」


「海外に行けば、最低限、英語を習得し、英語を使って卒業しなければいけないというミッション、つまり目標ができる。」

そう決めた私は、猪突猛進。

エージェントの説明会を勝手に2名で予約して親を引きずり込み、英語を勉強して、エージェントの入学試験に受かった。

そんな思いつきの勢いで、バカみたいに金のかかることを言うなとド正論で猛反対する親をあらゆる方法を使って全力で説得し、折れさせた。半ばパワープレーも含みつつ…。


長い工程は割愛し、紆余曲折の結果、私は無事、18歳で単身アメリカに渡った。
(叶えてくれたお母さんお父さん、ありがとう)


渡米したは良いものの、ここからが本当のスタートであることは、想像に難くないだろう。


ビジネス専攻の私は、英語もままならないままビジネスの授業を受ける。もちろん英会話の練習もしていったが、実際問題、ネイティブの言葉や会話スピードでは、意味不明。

しかし、自分でわがままを言ってアメリカに来た以上、絶対に良い成績を取って卒業するまでが最低ラインだ。泣き言を言っている場合ではない。


友達づくりだけは得意だった私は、なんとか各クラスに友達をつくり、彼らのサポートをこれでもかというくらい使って成績キープに全力を尽くした。

そんなある日、ビジネスのクラスで友達になったロシア人と会話をしていた。正確には、していたつもりだった。

「How come you know that i'm here?!」
(なんでわたしがいるってわかったの?!)
「I'm sleepy today...」
(今日は眠いよ〜)


アメリカに着いて15日目の私は、それすら聞き取れなかった。Howとyouだけを聞き取り、How are you的なことを聞かれているのだと思い、眠いと答えたのだ。

彼女は私の返事を聞いて、大爆笑していた。
わたしは、彼女がなぜ笑っているのかわからなかったが、とりあえずつられて大爆笑した。


私はその3年後、無事に成績優秀者でアメリカの大学を卒業した。もちろん、今ならわかる。なぜ彼女が爆笑していたのか。

これっぽっちの英語力で入学した私は、卒業するまでに、書ききれない程の苦労があった。悔しくなる時もたくさんあった。


けれど今、アメリカでの経験は私にとって確実に武器となっている。

私に自信という鎧を着させ、もっと頑張れるだろう、と士気を高めてくれる。海外生活という切り口から、他人との会話の幅を広げてくれる。英語というツール1つで、世界の多くの人と簡単にコミュニケーションを取ることができる。


今どんなに落ち込んでいても、あの頃の自分には、はなまるをあげたいと思えるのだ。

だから、私は胸を張って言える。18歳の私へ。あの選択をしてくれてありがとう。私は、その選択を正解だと断言できるよ。

もう一度やり直せると言われても、私は同じ選択をするだろう。

#あの選択をしたから

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