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連載「建築におけるフィクションについての12章」あとがき 立石遼太郎

0 「はじめに」としてのあとがき

1カ月前に乗り越えたはずの締切が、もう目の前に差し迫っている。これ以上なにも出てこないと思われる状態から、またなにかを絞り出さなければならない。これまでの章との整合性に、今月も縛られる。章を重ねるごとに、そのプレッシャーに押しつぶされそうになる。
2019年の5月初旬、連載の話をいただき、軽い気持ちで了承した自分に今一度考える時間を与えたい。本来であれば、少なくとも1カ月は連載の骨格を練るべきだったが、序章の初稿の締切は10日後に迫っていた。逃げの一手、苦し紛れに与えた、最初の章と最後の章で同じ建築物を訪れる、というフォーマット。第1章第12章で二度《青森県立美術館》を取り上げる。この堂々巡りの間に10の建築物を見て回り、建築におけるフィクションの地固を行う。この章立てのおかげで、なんとか最終章までたどり着いたような気がする。
すべてを終えた今この地点から、本連載を振り返ろう。この文章はあとがきであるものの、本来、序章で書くべき、連載の目的や骨格、章立ての構造を明かしておきたい。「はじめに」としての「あとがき」というわけだ。風変わりな順序だが、まずはあとがきを読み、次に序章、それから章をひとつずつ読んでいただければ、ややまわりくどい本連載の構造や性格を掴みやすくなるかもしれない。

1 目的と骨格

本連載は、建築とフィクションをテーマとし、フィクションという視点から建築を眺めてみれば、建築をどのように語ることができるのか、果たして建築はおもしろいのかを明らかにする試みであった。もう少し正確にいうならば、そもそも存在する世界の違う建築とフィクションの間に、類似点と相違点を見つけ出すことが本連載の第一目的であり、したがって、「どのように語るか/果たしておもしろいのか」は最初の目的から導き出される副産物である。こうもいえるだろう。建築におけるフィクションを定義し、その定義されたものを元手に、なにが語り得るのか/語り得ないのかを明らかにする。これが本連載の最も太い骨格だ。

1.1 スタートとゴールはどこにあるのか

次に重要なのが、第1章において定義した「サバイバルライン」だ。サバイバルラインは、先ほどの骨格を下支えする、連載の通奏低音といえる。第1章ではまず、建築とフィクションの住む世界がいかに異なっているかを示し、それゆえにサバイバルラインは誰も乗り越えてはならないことを示した。サバイバルラインによって、建築とフィクションは完全に分離されるというわけだ。建築におけるフィクションとは、建築とフィクションを統合した言葉であるが、ゴールには統合すべき建築とフィクションを、まず分離することから連載をスタートした。スタート地点は往々にしてゴールから最も遠い位置に設けられるものだが、本連載におけるスタート地点も、建築におけるフィクションから最も遠い位置にあった。しかし、最終章においても同じ地点に戻るのだから、章立ての構造としては、スタートとゴールは同じ地点になければならない。一見、章立ての構造は破綻しているように思えるのだが、フィクションをテーマにしている利点はここにある。スタートとゴールを隔てるものがサバイバルラインである以上、両者を隔てているサバイバルラインを乗り越えることができれば、スタートとゴールはひとつの場所に落ち着くのだ。スタートとゴールは平面上に距離をとった二点ではなく、ねじれの関係にある二点である。

1.2 ふたつの構造

通奏低音はあくまでサバイバルラインだが、建築におけるフィクションは、大まかにふたつの構造で成り立っている。ひとつは第2章から第5章までの「虚構システム/虚構物語」の構造、もうひとつは第7章から第10章までの「リアリティ/アクチュアリティ/ヴァーチュアリティ」の構造だ。第6章は第2章から第5章の総集編、第11章は第7章から第10章の総集編となっているので、時間に余裕がなければ、あとがき→序文→第1章→第6章→第11章→第12章→あとがきという順で読めば、連載の構造をつかむことができるだろう。とはいえ、目的や骨格、構造よりも、その過程で本筋から逸れた枝葉こそ重要であったりもするため、全文を読んでいただければ幸いである。
整理しよう。建築におけるフィクションの目的は、建築とフィクションの間に類似点と相違点を見出すことである。連載の骨格は、建築におけるフィクションによって、建築のなにが語り得て、なにが語り得ないかを明らかにすることだ。建築とフィクションを隔てつつ、その乗り越えを企てるためにサバイバルラインを通奏低音とし、章立てにおいては「虚構システム/虚構物語」編と「リアリティ/アクチュアリティ/ヴァーチュアリティ」編という、ふたつの構造をとっている。

2 目的に対する一応の結論

さて、序章で問いかけた、果たして建築はおもしろいのか、という問いにまだ答えていなかった。この問いに答えることで、最後としよう。

2.1 サバイバルラインを乗り越えた先に

そもそもフィクションとは、サバイバルラインが現実とフィクションを分けることによって成立する。フィクションはサバイバルラインの外に出ることはできず、現実もまたサバイバルラインを乗り越えることはできない。フィクションも現実も物理的にはサバイバルラインを乗り越えることはできないが、しかし、例えば第5章において詳しく見たオウム真理教による一連の事件のように、僕らはしばしばサバイバルラインを乗り越えてしまうこともある。サバイバルラインは、乗り越えられないものとして僕らの目の前に立ち塞がるのではない。あくまで乗り越えてはならない(should not)ものであって、乗り越えられないもの(can not)ではない。乗り越えるか否かは僕らの自主性に任されている。
だが、サバイバルラインを乗り越えることは、決して負の側面ばかりではないことにも言及しておこう。サバイバルラインを乗り越えたことをなんらかのかたちで示せば、乗り越えることによって事物に新しい意味を付け加えることができる。目の前にある事物に、事物本来の意味とは異なる意味を見出すことは、サバイバルラインを乗り越えることに他ならないだろう。例えば、目の前のリンゴを果物として見ればそれを食べてしまえばいいが、そのリンゴに、知恵の実という意味をもたせたとき、僕らは創世記というフィクションの世界に入ることができる。リンゴを知恵の実と見なすことを、僕らは想像力と呼ぶ。フィクション、あるいは想像力によって、現実世界にはなかった意味がひとつ、事物に付け加えられるのだ。
フィクションの世界に行ってしまった事物は、しかし相変わらず目の前にあり続ける。リンゴは創世記の世界に行ってしまったからといって、目の前から消えるわけではない(食べてしまわない限り、リンゴは永遠に目の前から消え去りはしないのだ)。サバイバルラインは誰にでも簡単に乗り越えることができるが、乗り越えてしまえば二度と帰ってこれないわけではなく、いつでも自由に戻ってくることができる。乗り越えて、また戻ってきた時には、目の前のリンゴのもつ意味がひとつ増えている。しかし、新しく増えた意味は、フィクションの世界の文脈を抜きにして語ることはできない。創世記を知らない人を前にして、創世記を語らずにいくらリンゴが知恵の実であることを説明しても、新しい意味は共有できない。フィクションによって生み出される意味は、かくも文脈に依存するのだ。想像力は、文脈の前では無力である。

2.2 建築におけるフィクションの意義

建築だって同じことだ。個々の建築物に物語はあるが、それらの物語は文脈によって支えられている。建築家は個々の建築物に文脈を与え、物語をつくり出す。正確に表現するならば、個々の建築物に与えられた文脈からいくつかを選び取って、建築物固有の物語をつくり出す。建築家によって選び取られた文脈を、僕らはコンセプトと呼び、コンセプトにしたがって建築物の意味は構築されていく。
本連載で明らかにしようと試みたのは、選び取られなかった文脈から、別の物語を立ち上げることであった。建築におけるフィクションとは、建築家の立てたコンセプトに依存しない、建築物の語り口であった。別の物語を立ち上げることで、建築物に別の意味が生じたのであれば、建築におけるフィクションの目論見は一旦の成功を収めたといっていいだろう。相変わらず目の前にあり続ける建築物に、現実世界にはなかった意味がひとつ、付け加えられる。これほど豊かなことはない。
仮に、批評の力が弱まっているという風潮が正しいのだとすれば、その風潮はどこから来ているのか。正しく語ろうとすることが、風潮を生み出しているのかもしれない。建築物の批評には文脈がつきものだが、建築家が選んだ文脈によって語れば、意味は建築家が与えたもの以上に増えることはない。文脈を掛け替えること、新たな意味を生み出すこと。そのフォーマットとして、建築におけるフィクションは存在しているのだ。

3 文脈を共有することでしか

果たして建築はおもしろいのか、という問いに、そろそろ結論を出さなければならない。建築物を取り囲む様々な文脈は、その数だけ建築物に新しい意味を生み出す。建築物はそのスケールの中に収まるものであれば、現実世界におけるおおよその物(例えば、第9章で引用した、長坂常の挙げた例であれば、100円ショップで買ってきたゴミ箱、カッシーナのイス、きれいなシャンデリアなど)、あるいはそこで起きる出来事(例えば、第5章で触れた中山英之の個展「中山英之展 , and then」で上映されたいくつかの映画のなかに、出来事は写されている)を包摂している。もしかしたら建築物はフィクション以上に、目の前の事物に新たな意味を付け加える作用があるのかもしれない。その点において、建築物がおもしろくなる可能性は十二分にある。しかし、文脈を共有しない限り、誰も新しい意味が付け加わったことに気がつかないことも確かである。おもしろさは文脈によって支えられる。建築という意味の生成に、これまで従事してきたあまたの建築物や建築家という文脈を知らなければ、このおもしろさは理解しづらいことも確かだ。
こうした脈々と受け継がれてきた文脈を、「専門的」として退けることは簡単だろう。だが、その先に待っているのは、せいぜいリンゴを食べることくらいだろう。僕たちにできることは、誠心誠意、文脈を語ることである。文脈を伝えることでしか、建築のおもしろさは伝わらない。フィクションと同じことだ。
ただ、文脈をズラすことで、専門性を下げることは可能かもしれない。その萌芽がレトリックであり、フィクションだとすれば、しかし限界も見えてきていることは確かだ。これからなにに依存すれば、おもしろさがもっと伝わるのか、道筋はまだ見えていない。

4 すべての意味を超越した身体の手前にある意味

もちろん、意味作用によらないおもしろさが建築物には残されている。建築物は身体感覚すべてを投じて楽しむことができる物語だ。いや、ここには意味作用の連鎖による物語などないのかもしれない。意味をすべて取り去って、ただ身体を空間に預けること。一切の文脈を取り去って、ただただ身体に空間を預けることにより生まれるおもしろさが、建築物には存在している。当たり前のことであるが、五感のうちいずれかを欠損しなければ成立しない映画や小説などの他のフィクションと異なり、建築物を体験するということは、五感すべてを空間に預けることに他ならない。もちろん五感のうちのいずれかを欠損させることで、映画は映画特有の、小説は小説特有のおもしろさがあるのだろう。ただ、身体をすべて預けることのできる建築には、それ特有のおもしろさがあるはずだ。これは、言葉では絶対に書き表せられない。湧き立つような興奮や、不思議と心が安らぐような感覚、あるいはじっといつまでもそこに居たくなるような心持ちは、いくら言葉を尽くしたところで余すことなく表現しきることは不可能だ。実際に、建築物を建てなければならない。だから、言葉を尽くそうとするのである。言葉を尽くすことで、身体には覚えのない、まったく別の、意味のおもしろさが生まれる。語り得ないものを前にして沈黙するのは簡単だが、せめて沈黙の一歩手前までは語ろうとする努力は必要だろう。その努力の先に、身体とは別のおもしろさが見出せるはずだ。《静かなレトリック》で語ろうと試みたおもしろさは、この身体とは別のおもしろさであった。語り得ないものの臨界点、すなわち語り得るものの限界点。そこまで漸近しておきながら、しかし意味のおもしろさは決して身体には追いつけないだろう。今後のために、これを、意味のサバイバルラインとでも名付けておこう。意味のサバイバルラインは、誰も乗り越えてはならないのではない。誰も乗り越えることができない、あるいは誰も乗り越えられないのだ。
ともかくも、建築は、意味の前に身体が、身体のあとに意味が、それぞれ別のおもしろさを引き連れる。まったく別の、二重のおもしろさが、建築には備わっている。身体のおもしろさには謎の空洞がある。なぜ身体をよろこばす空間とそうでない空間が存在するのか、あるいはなぜ空間によって身体がよろこぶのか、その理由は誰も言葉にすることはできない。だからこそ、身体のあとにやってくる意味が必要なのだ。謎の空洞を少しでも埋めようとすることが、謎の空洞の大きさを思い知らされる行為であっても、僕らはそれを埋め続けなければならない。こうした無駄な足掻きがおもしろいのだ。これを一応の結論として、「建築におけるフィクションについての12章」を閉じることとしたい。

5 謝辞

長くまわりくどい文章を辛抱強く読んでくださった、すべての読者の方に感謝申し上げます。
また、このような機会を設けていただき、12章すべてに適切なアドバイスやコメントを加えてくださった富井さんには、感謝の言葉も見つかりません。本当にありがとうございました。



2020年6月 立石遼太郎

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2019年6月より毎月10日更新(日曜・祝日の場合は翌月曜)。1年間、計12回の連載。 記事1本ごとの価格は300円。 12本まとめた価格は2,400円。

「フィクション」の概念を通して、建築を捉える試論。全12章の構成。///立石遼太郎氏は、修士制作《静かなレトリック》(2015、東京藝術大…

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