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寂しさで息をする


愛することは寂しいことだ。




彼に逢えないと自覚する日々は薄い地獄を見に纏った様な日々で、時間が狂ったように遅く、それでもあっという間に感じる瞬間に悲しくなってしまうというのを繰り返している。

愛しているという文字をなぞる夜をあと何度繰り返せば貴方に逢えるのでしょう、と古代文学のようなぼやきを心に灯す。どれだけ自分に輝く瞬間があれど、周りの友人が恋人に愛されて微笑むあの姿に勝てる気など一切しない。愛することの方が私にとっては向いてるけれど、「愛される」をきちんと感覚として知りたいし覚えてみたい、という気持ちもある。

私は所謂「メンヘラ」らしいのでね、
いつまでも「愛してくれますか」と問い続けるよ。


以前書いた『降り落ちるのは心』というnoteに

寂しさという感情自体に、生きている意味があるような気がする。

『降り落ちるのは心』

と、書いた。

私は自分で書いた文章をよく読み返すけれど、この一文はよくよく自身の核を表しているなと感じる。

結局私は寂しさから離れられないし、寂しさを大切にしているからこそ、その感情を抜きにしては生きていけないのだ。

寂しさで物を書いて、寂しさで夜を越え、息をする。

そんな日々なんだろう。



詩人である茨木のり子氏は「なんということはない『寂寥感だけが道づれ』の日々が自由ということだった。」と書いたそうだ。
自由に生きていく上では、個として自立する孤独がどうやってもついて回るのだと。

この『寂寥感だけが道づれ』という言葉、考え方は
私の『寂しさで息をする』という思想と、きっと近しいものだ。


彼を愛おしいと、好きだと思うためにどうやったって寂しさは私について回る。幸せでも、寂しくなくても彼を想うことはできるけれど、そうじゃない、なくならないんだ。

寂しくない、なんて、いつか言える日が来るんだろうか?




満たされてしまっては愛は描けないような、そんな気がしている。

不器用だからずっと寂しく居させて



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