朝焼けに人生が映る
何にも書くことなんてないのにnoteだったり手記を書きたくなるのはどことなーく気を病んでる時で。だけど何がダメなのか、とかあんまりわからないし、沈んでいく方向に向き合うのもなんとなーく違うような気がする。ずーっとこのまんま?
久々に旅行に行った。九月なのに真夏の旅行みたいに炎天下で、めんどくさがって日焼け止めを塗らなかった腕がジリジリと焦げていくような気がした。
残りが半分以下になったペットボトルの水を持って歩く。腕を振っているからその度にパシャパシャと音が鳴る。私はこの手に海を持っているみたいだ、と思う。久しく海へ出向いていない。海鳴りを聴いていない。変わらないものって、本当にあるんだろうか?
朝早く飛行機に乗るために始発の電車を待っていた。朝五時のホームからは赤く焼けた空が見えている。
この朝焼けのために生きようと思える瞬間が人生であと何度訪れるのだろう。淡く希死念慮が脳を掠める、夜が去っていく、薄明かりの水色、眩い橙、疎らの雲、散らすように光る、どんどんどんどん光る。やがて見慣れた朝の空に変わっていく。
人生もこんな風に毎日光る瞬間が訪れたなら、いや、私たちが知らないだけで、眩く光っているんだろうか、でもそれなら気づくんじゃないか、気づくくらいには光っていてほしいんだけれど、それは我儘かな。
お金は愛より大事で、愛はお金より美しいのか。本当に?本当にそうなんだろうか、私たちは何かと向き合うことからずっと逃げているような、でも向き合うことなど初めからできなかったような、そんな気がする。そんな感覚がある。どうしてなんだろうね。
日常の当たり前になんとなく疑問を感じて、抗ってみたりして、そうやってほんの少しだけ呼吸を頑張ってみる。
朝焼けはきっとまた訪れる。私はきっとまたそれを見られる。
私の人生にはならない貴方と、私は今日も生きていく。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?