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【絶対写真論】Chapter7 デジタライゼーション

レンズから入光した情報をイメージセンサーで電子変換し、装置が認識可能な電気信号に翻訳する。デジタルカメラは実空間の情報を文字通りデジタル化することによって、最終的な画像を生成している。

その際たる分野が天文写真である。宇宙望遠鏡によって得られた数値情報を分析(解析)することによって、われわれが目にする宇宙の壮大な写真を生成している。

ただし、表層する色彩は数値変換アルゴリズムによって得られた結果が最もらしいと判断した人間が、世界のどこかに存在している。当然ながら、その画像が確からしい証拠は実際に視認することはできないのである。

なお、われわれが認識可能なのは、可視光領域のみである。一方で、天文分野で測定されるのは主に近赤外線の波長領域であるため、当然ながら人間は近赤外線の波長領域を視認することができない。

たとえば、レントゲン写真のように通過したX線をイメージプレートに写す方法がある。天文写真のように数値変換による方法もある。このように、非可視光領域を「みる」ためには、なんらかの方法によって可視光領域へと「変換」する必要がある。


写真の評価は相対的によってのみしか判断することができない。写真に限らず、アート作品の価値は相対的な比較によって決定付けられている。「良い」「悪い」といった感覚的な評価基準ではなく、すでに市場で評価を受けている作品やキャリアなど総合的に比較・検証することをによって、相対的な市場価値が決められているのである。

そのため、広告関連のカメラマンがいざ作品(個展)と称して破格な値段を付けたりするのを散見するが、こうした作品において資産価値は限りなくゼロに近い。なぜなら、アート市場に流通している訳ではない、同程度のキャリアの作品と比較して価格が設定されている訳ではないため、将来的な作品価値の上昇は正直いって見込めない。むしろ、ゼロに近づく可能性も否定できない。広告業界ではプロかもしれないが、アート業界では全くのアマチュアといった状態は極めて多い。


評価の方法として例をあげるとすれば、身近なところではグルメサイトによる評価が挙げられる。個人の絶対的な評価点が、最終的に平均点としてその店舗の評価点となる。本来、指標のない絶対的な評価点と、その平均点とでは相関関係はない。にも関わらず、こうして付けられた店舗の平均点が、あたかも民意の絶対的な点数としてみなされているのである。

そもそも、われわれは日常的かつ無意識的に相対的な比較によって物事を判断している。むしろ、相対的にしか判断しようがないのである。はじめてみたものに対して、その優劣を判断する事ができない。

しかし、人ははじめてみてわからないものであったとしても、それがなにかを「分かろう」と努める。その判断基準となるのは個人の脳の中に断片化された記憶情報である。持ちうる記憶情報との類似性と比較・検証することによって、そのものがなにであるかが「わかる」(分かったような気)になる。

アート作品、とりわけ現代アートにおいて絶対的な正解は存在し得ないといっても過言ではない。そのため、絶対多数が必ずしも正解とは限らず、鑑賞者によって多様な解釈があって然るべきであるとさえ私は思っている。

アート作品とは作品と対話を行うためだけではなく、自己対話としての役割を担っているのである。




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