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私の最高で可哀そうな青春

 今日は始業式だった。いつも通りの式はすぐに終わって、あっけなく3年生の幕が開けた。前と違うところといえば、マスクの着用が任意になったことと、校歌を声を出して歌えるようになったことくらいだろうか。

 式典での校長先生の話は、元社会科の先生ということもあってか、世界の問題や偉人、あるいは歴史、倫理、政治経済などの授業に出てくることがトピックになる。例えば、古代ギリシアの愛の種類とか、第二次世界大戦中のホロコーストとか。朝一番に聞くにはちょっと重すぎる話もある。

 話の内容は基本毎回違うのだけど、私が在学中のおそらく全ての式典でコロナの話題が出た。これからもコロナの話は必ずすると思う。コロナによる制限が緩まったのが3月中旬だから、今日は「元に戻る節目の日」で、特に強調したかったのかもしれない。でも、私はことあるごとにコロナ、コロナと言われるのが嫌いだ。何度も聞くからじゃない。私達の青春を「コロナの青春」にしてしまっているように感じるからだ。

 今の高校生は最大限に楽しめていなくて窮屈だと、そう大人は思うのではないだろうか。マスク、黙食、行事について回るありとあらゆる制限。自分の楽しかった高校生時代にはなかった「あるべきでないもの」が、今の若者の高校生時代にはある。先生という職業柄、生徒に楽しんでほしいという気持ちからくる考えなのかもしれない。でも、この「楽しい」という感情を、自分の高校時代だけを基準にしているのではないかと思わざるを得ない。

 私は、中学2年生の終わりからコロナが流行りだした。アメリカから帰国する時には細心の注意を払い、友達にも満足にさようならを言えなかった。中学3年生の運動会も合唱祭も修学旅行も中止になった。中学を卒業するころから少しずつ良くなったけど、高校の入学式も親は式会場に入れなかったし、例年は一泊二日の遠足も日帰りになった。学校祭も一日だけ。緩やかに、だんだんと制限がなくなっていって、高校3年生になるときにほぼ元の状態に戻った。

 大人がこれを読んだらきっと、「かわいそうに」と思うんだろう。もしくは、「最後の1年だけでも普通に過ごせてよかった」と思うだろうか。でもそれは、自分の高校生時代に出来たことが私はできなかったからだ。大人は、私達はコロナの最中の青春しか知らないことに気づいていないように思える。確かに、私達の世代はコロナの影響で沢山の制限の中で過ごしてきたし、イベントが中止になったり縮小してしか行われなかったのは事実だ。でも、私はそれしか知らない。本当の学校祭はもっと大規模だったとしても、私は1日にすべてを詰め込んだ1年生の学校祭と、2日間開催できてたくさんのステージに立った2年生の学校祭しか知らないのだ。

 私の青春は、コロナに壊された不完全で可哀そうな青春なんかじゃない。私の青春は、笑顔で私の最大限まで楽しんだ、最高で唯一無二のかけがえのない青春だ。コロナのあれこれがあっても、間違いなく、この3年間は私にとって宝物だ。





きゅう
髪の毛がいつもちょっとはね気味の高校生。将来は田舎に住みたい。言語学に興味がある。好きな食べ物はきゅうり。

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