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短編小説ノーレトリック、ノーセックス(仮題)<後編>


それから僕らは実に上手くやっていたように思う。

週に一度はカフェで会い、手探りながらも僕らはお互いの脳内に貯蔵する文化的辞典を引き出す訓練を重ねた。僕は太宰治の絶望的な句読点の多さを彼女に渡すことが出来たし、彼女はNEU!のクラウトロック的旋律を惜しげもなく共有した。

僕らはお互いにお互いの言語を交えながら、音楽・絵画・ファッション・政治・歴史・恋愛の話をした。そういった話を彼女としている時、僕はインターネットのことを忘れることが出来た。アイデンティティの一部だったインターネットは、実は僕が過剰に摂取していた依存ドラッグでしかなかったのだ。彼女との言語交換は僕をいつでもシラフにしてくれた。

2時間のセッションはあっという間に過ぎ、僕らは翌週までにやることを決めて、ハグをして別れる。


3か月ほどこれを繰り返したある日、彼女はまるでそれが我々が行ってきたルーティンの一部であるかのように

ビールでも飲みに行きましょう。

と言った。

僕は全くそれが自然な流れのような気がして、快く承諾した。今思えば、それが我々にとっての、否僕にとっての過ちだった。


我々はいつものカフェから、20分も30分も歩いた。その間、我々は言語を交換することなく話した。その時、我々は真に友人であった。僕は、僕なりのやり方で自分を語ったし、彼女は彼女なりのやり方で自分を語った。我々がお互いの言語を交換している間、そこには常に貸し借り勘定があったが、この時ばかりは真のコミュニケーションが横たわっていた。


ここにしましょう。

と彼女は言った。そこはバーと言うにはあまりに貧しく、酒屋のイートインというのが適切な形容であった。

彼女は適当にピルスナービールを2本取って運んできた。我々は初めて「乾杯」と言った。



それからの記憶はあまりない。多分僕はギークらしく早口で芸術論についてまくしたて、彼女がそれを聞いた。彼女は自分がいかに自堕落な人間かを語り、僕はそんな彼女を慰めた。


2時間が経った。冷え込む冬の夜なのに、外の座席には人がいた。マフラーで顎まで覆ってビールを煽っている人々を見ると、僕は来るところまで来た、と思った。だから、僕は彼女にこう聞いた。

ねえ、僕らはこういう付き合い方をした方が良いのかな。

彼女は、わからないと言った。二人の間に沈黙が訪れた。

僕は20分耐えた。ビートルズのブラックバードを頭の中で演奏するのは10回が限界だったからだ。そしてもう一度質問した。

僕らはこうしてビールを飲むべきなのかな。

彼女は僕の目の虹彩をずっと眺めていたが、やがて頭を傾けたかと思うと、その唇を僕のに重ねた。これはイエスである、イエス以外の何物でもないと瞬間的に思った。そして、僕らは彼女のアパートメントに向かった。

僕は、「体の関係は持たないから」という彼女の言い分をすっかり忘れていた。


翌朝、キッチンの方から見知らぬ声が聞こえてきて初めて、彼女の家がシェアハウスであることに気付いた。

こんな朝早い時間に、男が女の部屋から出てきたらルームメイトは彼女をファックガールだと思うだろう。彼女はそう思われても良いのだろうか。僕はもう少しここでジッとしていた方が良いのだろうか。

彼女はタトゥーの入った腕を僕の胸に置いて、寝息を立てている。産毛が朝日に反射してキラキラと輝いていた。



それから2週間彼女は電話に出なかった。その間に僕はインターネットの世界に逆戻りしたものの、掲示板に立ちあがった僕の死亡説を眺めていただけで、いつものレトリックでもってそれらを否定する事はなかった。

日曜日の昼下がり、僕がたまった皿洗いをしていると彼女から電話がかかってきた。

もしもし。もう2週間も言語交換をサボってるじゃないか。
ごめんない。It's over.
また君は僕を混乱させている。
私達の言語は死んだのよ。言語交換を始めた時点で私達は既に交わっていたの。とても深いところでね。それは体の交わりなんかよりよっぽど情熱的で、脆くて、根本的だったの。あなたも感じていたはずよ。私達がお互いの存在なしではもはや自分を保てないことを。そして私はあなたに身体的にキスをした。それでもう終わり。私達は自分の体から解放した魂を自分の体に押し戻したのよ。あの瞬間、言語は殺されたのよ。
もう一度やり直せばいいじゃないか。
馬鹿ね。これはタトゥーと同じで、一度実行したら次は上から塗り直すしか方法はないの。もし私達がもう一度やり直しても、自分の魂へ自分のエゴを塗り直すことしか出来ないのよ。
じゃあ君はもう僕に会うつもりはないんだね。
ノーレトリック、ノーセックスよ。じゃあ、さよなら。



僕はそれから毎晩彼女を追いかける夢を見た。彼女は橋の向こうに立っていて、僕は彼女に向かって走る。でも毎回もう少しのところで橋が崩れて、僕は奈落に落ちる。


つまり、どういうことなのだ?

ノーレトリック、ノーセックスとは一体何なのだ?

言語交換で、我々は何をしていたのか?

我々にとって言語とは何だったのか?

彼女の目的は何だったのか?

僕は利用されて、捨てられたのか?

そもそも、彼女は何なのだ?


こうした問いに答えられるのは彼女だけだった。僕には「答え」がなかった。

そしてこの時、僕は彼女が僕の言語を奪ったのだと気づいた。




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