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2022/1/11 「満たされなくて」

独りで満たされてみたくて、一人で行った。怖れることは何もなく、ただただ、期待ばかりが大きくなっていたと思う。

今回行った先の空間は、やはり演者と観客という線引きが成されている場で、前に何度か行った同じような空間は、やはり、特別な場だったのだと実感した。

「楽しむ」という面では、非常に、一人一人が楽しめていたのだと思う。演者も、観客も。それぞれがそれぞれに楽しんだ。けれど、何かに乏しい私の心。楽しむことに明け暮れているわけでは決してなかった。演者の、つまるところのプロ意識の高い表現者として、その場の世界観に入り込んでしまっている彼らと、私、すなわち、観客の楽しみ方は大きく異なっていたのだから。

私は彼らの圧倒的な表現力に魅了され、つい、見入っていた。魅せられる場面ではなく、同じ空間にいる皆が一体となって楽しむことが期待されている時にも、自ら、あちら側とこちら側の境界線を引いてしまっていたのである。演者と観客という関係がなくなって、その空間にいるすべての人が一体となり「楽しむ」というのは、それを共有する、共有できる状態だと考えられる。言い換えれば、すべての人が同じ温度で楽しんでいる状態が、一体となる、ということであろう。

つまり、私は、演者に見入ってしまったために別の楽しみ方をしてしまい、一体の中には入れずにいた、というわけである。本来であれば、一人一人というあり方から楽しむの共有によって一体となることができ、それゆえに孤独からの解放が期待できる場を、逃してしまっていたのだ。

、、、だから、満たされなかったのか。私は、本当は、孤独からの解放をずっと求めているのだ。

では、一人でいた私はその時、何を感じられていたのだろう。

思い起こしてみると、同じ寂しさを彼らと私は持ち合わせていたのではないか、なんていう、浅はかな考えに行き着くのだ。

だって、あの空間で、楽しむことが用意されている場で、一人で楽しみながらも自分が何かに乏しいと感じていることに気が付いていたなんておかしい。ずっと一人で一体の枠の外側にいて、見入っていたのだから。

そう、見入っていて、演者としての彼らに、彼らの表現力に魅了されて、

私の心が引かれていたのは、本当に彼らのプロとしての手腕だったのだろうか。

確かに、彼らの表現力は私の見た中では圧倒的で、特にここまで話してきた演者と観客の関係が取り払われる場での、魅せる姿(ある意味、そういう場に限っては、足手まといなのかもしれないと思ったりする)。とにかくその魅せる姿に、魅せられていたのは本当である。断言できる。けれども、こうやって思い起こして、丁寧に思い返していくと、それだけではなかったように思えてくるのだ。

彼らに魅せられて、見入り込んでいくほど私自身の寂しさが露になって、見つめることができていた。でも、多分、実際に私が見つめていたのは、彼らの内にある寂しさなのだと思う。それが、きっと私の内にあるものと似たようなもので、それゆえに、自分が満たされていないことに気付いたのではないだろうか。

少し、言葉が曖昧だと思う。けれど、今はこのままで遺しておきたくて。このままが、あの空間に相応しそうだ。だって、あの空間で過ごしたのは暁ほどの儚い時間で、自分のことしか、はっきり思い起こすことができないのだから。人を魅了する彼らの内にある寂しさを、この身で感じて確認できたのは、あの時だけだった。

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