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大人の自由は、自己責任とセットである

2022年11月現在、30歳である。
小学生だった頃の私に言いたい。30歳の私は、君の思い描いているような大人には、残念ながらなれていない。そしてさらに残念なことに、なれる見込みも今のところなさそうだ。

小学生の頃に思い描いていた大人の私は、どこかの会社で事務をしていて、会社の制服を着て事務職をしていて(女性の職業はだいたい会社の事務職だと思っていた)、26歳とか28歳くらいで誰かと結婚して、そのタイミングで寿退社して、結婚式を挙げて新婚旅行へ行って、何人かの子どもに恵まれて、専業主婦で子育てに専念し、汗水流して働く旦那さんのために尽くして、たまに友人とカフェでお茶を飲みながら息抜きの雑談をして……、といった、昭和と平成が入り混じったような女性を思い描いていた。

さて2022年現在30歳の私、つまり現実である。

まず職業は事務職ではなく、営業職である。デスクワークだけでなく、人見知りのくせに取引先と商談をしていたり、家が大好きなくせに出張に行ったり、柄にもないことをして生活費を稼いでいる。会社に制服はないので、大学生のように毎日私服で働いている。取引先との商談がない日や、どうにもこうにもやる気が出ない日は「え、寝間着で来たの?」というようなダルッダルの服で出勤することもある。平社員でそこそこな働きで良いと思っていたのに体育会系で育ってしまったからか、自分でいうのもなんだが結構頑張って働いた。故に中間管理職に就いてしまって、文字通り、上司と部下の間でサンドイッチ状態になっている。世の中間管理職の皆さんと飲んでいろいろ話したいところである。

そして彼氏はおらず、ということは結婚の予定もなく、なので寿退社の予定もなく、新婚旅行に行く予定もない。もちろん出産の予定もない。何人かどころか一人も子どもはいない。尽くす対象である汗水流して働く旦那もいない。たまに友人とカフェでお茶を飲みながら息抜きの雑談をするところだけが同じかもしれない。ただ話している内容は子どもや旦那の話ではなく、ほとんど愚痴である。だって子どもも旦那もいないのだもの。

小学生の私は、今の私を見てどう思うだろうか。「まじか……」とガッカリするだろうか。「結婚してないのは、まぁわかった。でも彼氏もいないの????」と驚くだろうか。これに関しては私もびっくりである。独身主義ではないのだが、でも実際いないのだから仕方ない。

「おい、こんなはずじゃなかったぞ」という小学生の私の声が聞こえてくる。でも聞いてくれ、小学生の私。これが現実である。紛れもなく、これが2022年11月現在のお前の現実である。言いたいことはわかるが、私と共に現実を受け止めて欲しい。

仕事もプライベートも、思い描いた通りにはならなかった。むしろ想定外のことばかりが起こっている。こんなはずじゃなかった、と思うことは少なくないどころか、割と日常茶飯事である。今日も「仕事する前にちょっとだけゲームしよ」と思ってやり始めたら、気が付くとちょっとどころじゃない時間が経過していた。こんなはずじゃなかった。大人になっても、こんなもんである。

小学生の頃に思い描いていた大人にはほとんどかすっていない大人の女性になってしまったけれど、正直、今の自分のことは「これはこれで悪くないじゃない」と思っている。
中学生の頃は、いじめられていたことから、早く大人になりたいと思っていた。
高校生の頃は、厳しすぎる部活が嫌すぎて、早く大人になりたいと思っていた。
大学生の頃は、中高に比べると楽しかったが、思い描いていたようなキラキラしたキャンパスライフは過ごせなくて、早く大人になりたいと思っていた。

大人になった今、思い描いていた大人にはなれていないけれど、改めて思うことがある。それは、今が一番楽しい、大人でいることが楽しい、ということである。

初めてアルバイトをしたのは、大学生の時だった。コンビニ、短期の塾講師、飲食店とアルバイトをしたが、勉強への時間を多く割きたかった私は、あまり多くのシフトに入ることはなかった。故にアルバイトで稼ぐお金はそんなに多くなかった。3万円あれば良い方であったと思う。
稼がないくせに、浪費はよくした。高校生まで部活がみっちりあったので私服を着る機会がほとんどなく、毎日自分の好きな服を着てお洒落ができる「大学生」というものが楽しくて仕方がなかった。それゆえに梅田や京都河原町に出かけ、そんなにいらんだろ……というくらい服を買っていた。バイト代も、本来の使い道ではない奨学金も、恐らくほとんどが洋服代へと消え去っていったような気がする。

しかし、大人はすごい。週5で1日8時間働いて、月で何十万というお金を手に入れることができる。もちろん楽しいことばかりではない。学校と違って「お金を払ってサービスを受けている」のではなく、「会社に利益のあること(イコール会社に対してサービスをしている)をすることにより、会社からお金を貰っている」のである。つまり働かざる者食うべからず、なのである。そこには責任が発生してくるし、それなりのストレスも発生してしまう。しかし、時給や日給のアルバイトでは考えられないお金を手にすることができる。しかも有給休暇を使用すれば、休んでいるのに給与が減ることがない。働いてないのに! しかもしかも、夏季と冬季に賞与というものまである。通常の月給に加えて、プラスアルファでお金が貰えるのだ。お金大好きな浪費家の私にとっては、社会人である今の方が、子どもの頃に比べてやりたい放題のベストな環境すぎるのである。

お金があれば、なんでもできる、とまでは言わないが、だいたいのやりたいことはできる。
好きなアイドルのライブにも好きなだけ参戦できるし、本だって好きなだけ買えるし、スタバだって自分の行きたい時に行けるし、自由である。そう、大人って、自由なのだ。財布と相談する必要はあるが、何をしても自由なのである。

でも、大人の自由は、「自己責任」というものと必ずセットでもある。

私たちは幼い頃から何かに所属して生きてきた。早い人は保育園から始まり、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、大学院、専門学校など。保育園の前は、そういった意味ではどこにも所属していないが、親のような大人が全力で自分という存在を守ってくれていた。

では、そのあとはどうか?

例えば就職をしたものの、いろいろな都合で勤めていた会社を退職し、次の転職先も見つかっていない時。有休消化の序盤の方であれば、退職したことによる解放感で清々しい気持ちにもなっているだろう。アラームをかけずに気が済むまで寝るだろうし、人の少ない平日に買い物にもでかけるだろうし、1日中家でダラダラといて過ごすこともあるだろう。しかしその有休消化もどのあたりかはハッキリしないが、終わりに近づいてくると、初めの頃に感じていた清々しさはなくなり、だんだん不安になってくるのだ。「私、どこにも所属していない」と。でも子どもの頃は親や、大人が守ってくれたから……と思っていると、大人になるとどうやら事情が違うらしい、ということにも気付く。誰かが再就職先を斡旋してくれるわけでもない。手取り足取り世話をしてくれるわけでもない。自分で動き出さないと何も変わらないし見つからない。小学校を卒業したら中学校へ、中学校を卒業したら高校へ、高校を卒業したら大学や専門学校へ。中学や高校を卒業したタイミングで就職をする人もいるだろうが、日本では多くの人が大学や専門学校まで進学しているだろう。ここまでは、割と一般的に敷かれているレールと言える気がする。自分でレールを敷き続けなければいけないのは、社会人になってからだ、というのが私の持論である。

中学での部活選びから始まり、そこから受験する高校選び、学部選び、大学選び、就職先選びなど、私たちは大人になるまでに自分でレールを敷く準備を自然とさせられてきた気がする。一般的なレールが敷かれた上で、自分でレールを選択する練習をしてきた。しかし、それらのレールは最終学歴を卒業した時点で一気に剥奪される。「高校生」とか「大学生」とか、今まで当たり前にあった自分の肩書きが、一気に剥がされてしまうのだ。

自分は何にも所属していない、というのは子どもの頃には感じたことのない、大人になって初めて味わったちょっとした恐怖と言っても過言ではない。例えば、と言ったものの、当時勤めていた会社を退職し、有休消化を満喫しつつ、その有休消化日数が残り少なくなってきているにも関わらず次の勤務先が決まっていないことに恐怖を覚え始めたのは、紛れもなくこの私である。こんな恐怖の種類があることを、小学生の私はもちろん知る由もない。説明したところで「何言ってんだ、30歳の私は」と思うくらいだろう。

人生のすべては、選択の連続でできている。明日着る服を決めてから寝るか決めずに寝るか、今からテレビを見るかお風呂に入るか、22時なのに目の前にあるケーキを食べるか食べないかなど、大きなことから小さなことまで、誰もが常に何かの選択をし続けて生きている。その選択には「選んだ責任」が必ず伴っていて、その責任は大人になるにつれてどんどん大きくなってきた気がする。幼い頃とは違って、無条件に大人たちが守ってはくれないからだ。働くも自由、働かぬも自由。だけどそこには同時に働くという選択をした責任も、働かないという選択をした責任も自分に乗っかってくる。働くのであれば、お金を貰う以上、責任を持って勤め先に貢献しなければならない。働かないのであれば、他人のお金に頼ることなく、自分の責任の範疇で生きていかなければならない。大人の自由とは、いつもどんな時も、どんな選択をした時も、責任とセットなのである。

ただ、自分で責任を取る覚悟さえ持つことができたなら、大人は自由でとても楽しい。子どもの頃より、今の方が断然楽しく日々を過ごせていると思う。部活動で全力でダッシュすることもない。運動がしたい時は散歩したり、家でテレビやサブスクの動画を見ながら筋トレしたりできる。勉強も、朝から毎日下手な先生の授業を強制的に受けさせられることもない。自分が興味のあるものを好きなだけ突き詰めることができる。例えばそれは語学かもしれないし、マーケティングや資料作りなどビジネスに関することかもしれない。学校では詳しく教えてくれないお金のことや、校則で禁止されていることも多いメイクのことかもしれない。何を学ぶかだけでなく、その学習方法も自分で選ぶことができる。お金を払って本や講座で学んでもいいし、YouTubeのような動画だと無料で学ぶこともできる。学生でも自分の好きなことを学ぶことはもちろんできるが、学生は必修科目がある分、その自由度はどうしても大人の学びには勝てないだろう。

現に、私は文章を書くことが好きだからライティングゼミを受講し続けているし、バンドを組む予定もないのに、いつかやってみたいなと思っていたドラムも、もうかれこれ2年通っている。これも自分の選択と責任で稼いだお金で、自分の選択と責任で好きなことを学んでいるのだ。

家にある本が全部読み切れていないのに、本屋に行くと気になる本を買ってしまうし、最近だと電子書籍で割引になっている本をポチポチとクリックして大人買いしてしまうし、買い物に行って可愛い服や雑貨があると、吟味した後に買ってしまう。浪費癖は幼い頃と比べてあまり治ってはいない気がするが、昔はただただ浪費していただけに比べ、今は「この浪費で私の生活が潤うなら買って良し! ランチ外食、ちょっと控えれば良し!」と、これまた自分の選択と責任で購入するようにしている。

大人は、楽しい。自分の「好き」で自分を囲むことができる。
小学生の頃に思い描いていた大人と今の私は、だいぶかけ離れている。近付く予定も見込みもない。想定外ではあるが、私は今の、この想定外状態である自分がとても好きである。だって、楽しいんだもの。

小学生の私よ、まだまだ大人に守られている君には、こんな生活送れないだろうよ?羨ましければ、私と同じ道を歩んでここまで辿り着くが良い。ここに来るまで、正直ものすごくしんどかったし、残念ながら君の希望はほとんど叶っていないけれど、それでもめちゃくちゃ楽しい。この楽しさを、ぜひ君にも味わってほしいのだ。

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