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死ぬ未来しか見えなかったからビジョンなんてなかった

「30歳になったらこんな自分になってるといいな」
みんなこういう想像をして生きているのだろうか。なりたい自分のビジョンを持っているのが一般的なのだろうか。
わたしはというと、そういうものが全くなかった。自分の未来なんてまるで描けなくて、「生きてたらいいな」と思うくらい。
それでも結婚していた時期は、2人の将来を考えたりもしたし、子どもを持つという選択について考えたこともあった。考えたといっても「生きているのなら……」という仮定の想像で、人生設計とは全く呼べない代物だった。

わたしの目標は長らく、実家に暮らす愛犬を看取ることで、それさえかなえばいつ死んでもいいと思っていた。
愛犬を看取ることができれば、わたしの最低限の責任をはたしたといえると思ったから。
病気は何もよくならないし、何なら年々悪化してる気さえしていた。生きていても苦しさが積み上がるだけで、よろこびは少ない。生きていてもただひたすらに苦しくて辛い。

だが、わたしの元にグレーのほわほわの塊(猫)がやってくることになってその考えは変わった。すぐにではない。じょじょに、じょじょに、生活に猫が浸透していくのと同じスピードで生きる意識が変わっていった。
愛犬を看取るまで生きるという目標が、愛猫を看取るまで生きるに変更された。
猫は長くて20年ほど生きるだろう。その頃にはわたしは50歳くらいになる。そうなってくると人生設計をしなければいけなくなってくるのだろうか。

でもやっぱりわたしには、将来のビジョンは描けない。
まだ生きているだけで精一杯だから。
今は長い時の中で失ってしまった、自分が好きだったものを回収する作業の時間だ。身の回りに自分の好きなものを好きなだけ集めて、その中で生きていたい。誰にもじゃまされることなく、耳を貸すこともなく、自分がいいと思うものを集めて囲まれていたい。
その代表的なものが本だったり、インテリア、ぬいぐるみだ。

ずっと何もしたくないと思っていたから、今の自分のやりたいという気持ちを大事にしたい。やりたいと思ったことは何でもやりたい。
前は、やって何になるのか、やって意味があるのかということばかり考えていたけれど、とりあえず今はやってから考えようの精神。失敗したらそれはそれで経験ってことでいいので。
気持ちがここまで回復したことがただただうれしい。

いつもパートナーがいる生活だったから、何をするにも干渉されていた。ひとりは寂しいと思うこともあるけれど、利点もある。何も気にする必要がなくて、のびのびと生きていられる。とても心が軽い。


満足いくまで好きなものを集めて、物質的にゆたかになったら、その時に改めて人生設計というものを考えてみようかな。
でも、わたしの人生において、猫が登場することなんて一度だって想像したことがなかったし、人生は想定できないことのほうが多いのだと思う。猫がこんなにすばらしい生き物だと気づけたことは幸せすぎるほどのサプライズ。
それについこないだまで後ろ向きだった自分が、今の職場にたどりつけたことも思ってもみないことだ。つづくかわからないけれど、すてきな会社。


人生はなるようにしかならないし、だめな時は何をしてもだめだけど、たまには良いことがある。
その“たまに”をキャッチするために腐らず生きることだけをつづたいと思う。好きなことを好きなようにして、ゆらゆら漂っていたい。


できることなら文章を書いて生きていきたいな。

これがわたしの最大限のビジョン。


おわり


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