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わたしの自分の見つけ方


自分の好き・気持ちを大事に。

これは私が発信する中で、よく言葉にしていることだ。今までの私の生き方から、より自分が生きやすくなるような小さなお守りのような気持ちである。

私は要は「拗らせた」人だ。何故かいろんなことを敏感に感じ取って気にして、生き辛さを感じていた。心の中で色んなことを気にして、考えて、自分で自分を縛っていた。それに気づいたのは最近のことだ。

多分、自分と他者の違いをちゃんと分けて考えられる人、自分を受け入れられる人はあまり縁がないことかもしれない。

私の家庭環境と思春期


私は怒られたくない気持ちから、親の言うことを聞いて育った。家庭という小さな世界の中で、世間の大多数側にいること、内在で「この世界の常識に沿って生きなければならない」と思っていた。外れると「変わった人」になってしまい、世間から白い目で見られると思っていた。

だから、他人の目をうかがい、嫌われないように空気を読んで生きていた。幸い、幼少期から人目を気にする力は身についていて「こういうことをしたら他人は嫌だと思うだろう」「これは目立つな」というシュミレーション能力は長けていた方だったと思う。だから多感だった中学生時代もクラスの中で波を立てずに生きていた。

でも、そんな中で自分がやりたいこと、本当の気持ちを抑えるようになってしまった。とにかく、目立たないように世間の常識通りに生きること、同級生に指を指されないように様子を伺って大多数側に行くこと、自分の気持ちよりも空気を読むことは常に気を付けていた。出る杭は打たれるからね。


常識通りに生きなきゃいけないという気持ちの弊害


人目を気にすることがどんどん加速し、他人は全然気にしないようなことでも自分の中で許せない気持ち「自意識過剰」へと変化していった。

最近読んでよかった、オードリーの若林さんのエッセイでこんな一節があった。

 自意識過剰なことに対して、「誰も見ていないよ」と言う人がいるがそんなことは百も承知だ。
 誰も見ていないのは知っているけど、自分が見ているのだ、と書いた。
 ”自分が見ている”というのはどういうことかと言うと、「グランデとか言って気取っている自分が嫌だ」ということだ。
 こういう気持ちはどこから来るのかというと、まず自分が他人に「スターバックスでグランデとか言っちゃって気取ってんじゃねぇよ」と心の内で散々バカにしてきたことが原因なのである。

若林正恭/ナナメの夕暮れ p146

頭を殴られたような衝撃だった。
人目が気になるがあまりこんな人は”みっともない”と価値観をつくってしまい、他人へ否定的な気持ちを持ってしまうのかと。

ちなみにこの一節のあとには、「昔から言っているのだが、他人の目を気にする人は”おとなしくて奥手な人”などでは絶対ない。心の中で他人をバカにしまくっている、正真正銘のクソ野郎なのである。」と書かれているので笑っちゃう。私もそちら側の人間だったから。


今思えば、私も自意識に悩まされていた(今でもその節は残っている)。
歳相応の振る舞いや身なり、女性らしさ、SNSでの自分語り、内輪ネタetc.
「自分が嫌だと思うことはしない」という小さい頃に教え込まれるようなことがエスカレートすると、自分の中の価値観を他人にも押し込め、それにハマらなければ”価値下げ”をして「そこまで意識を向けられている自分」を肯定するほうに走るようだ。これらは全て無意識なので、いかに拗らせていたかよく分かる。

本にも書かれていたが、他人への否定的な気持ちは自分に返ってくることは私自身も感じている。相手に感じていることは反面教師として、結果として相手の視線を気にするのだ。


「こうあらねばならない」と思えば思うほど、自分の行動範囲を狭めてしまう。そうなると段々生き辛くなってくる。

「好き」の気持ちよりも「こっちのほうが否定されないかな」という方を選ぶ。全てが自分軸ではなく無難な選択、否定されない選択になっていた。



居心地のよい場所の見つけ方


そんな拗らせ人間が唯一自分のアイデンティティになったのが、ファッションだった。これは、自分の好きなお洋服を着ていると友人に褒められることが多かったからだ。初めて、自分の「好き」が認めてもらえた瞬間だった。

「好き」という感情には主体性があり、嘘はつけない
その好きな物が他人と違っても、あまりへこまなかった。それは、当時読んでいた雑誌のモデルさんたちが自分の好きを貫き、きらきら輝いていることに憧れを持っていたからかもしれない。

ファッションにおける「こうなりたい」は明確で、自信があった。
それを表現すると「いいね」と言ってもらえる。
お洋服で自分を表現することはできるようになった。
じゃあ、他に私の好きなことは何だろう。

どんなに小さなことでも「好き」や「幸せ」に感じることを書き記し、好きをかき集めて小さな自信の積み重ねていくことで、自分の居心地のよい場所やコトを見つけていった。それが世間の大多数側にいることから解放され、自分の居心地のよい場所に身を置くというマインドに変わっていった。


前述の一節の続きにはこう綴られている。

”好きなことがある”ということは、それだけで朝起きる理由になる。
”好き”という感情は”肯定”だ。
つまり、好きなことがあるということは”世界を肯定している”ことになる。
それは”世界が好き”ということにもなるという三段論法が成立する。

若林正恭/ナナメの夕暮れ p153

好きなことがあるこの世界は案外よいものだ。
読んだとき、私の気持ちを代弁してくれている気持ちがした。


自分探しの旅の先


好きに正直に生きられるようになってから、私は自分に余裕が持てるようになった。誰かに評価されなくても、心がそわそわしない。だって、自分のことは自分がよく知っていて、自分と他人は違うと分かっているから。

他人の良いところを素直にいいなと思えるし、違った考えの人がいても「そういう考えの人もいるのね」と距離を保って思うことができる。変なプライドも捨ててしまったので、悪いところはちゃんと直さねばという気持ちにもなれている。
これは今まで持っていなかった心の余白の大きさ所以の変化だろうな。


いつかは他人の目が気になるがあまり、世間の「よい」と思われるほうに流されていた。それは自分軸とは程遠い。

自分の「好き」から辿った自分探しの道は、大多数という呪縛から自らを解き放って自分の世界をつくることに通じていた

この道の先は、自分が居心地のよい場所をつくるのはもちろん、この心の余裕から生まれるものを誰かに還元できたらいいなぁと、今まで思ってもみなかったことを考えている。

それほど私の価値観を変えて、人生をいきいきとさせてくれるマインドの変化になった。




今まで言語化できなかった明確な気持ちが、たまたま若林さんのナナメの夕暮れと出会って再確認できた。過去の私と思わず重ねてしまうくらい共感してしまったこの本は、「好き」を知ることで見つけた自分の場所だけではなく、いろいろと、それはそれは私の深いところまで気づくきっかけになった。

この本から自分を知り、今の私のマインドのルーツにつながる文章が書けそう。(深すぎるので有料記事になるかも)

また、よければお付き合いください。

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