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春のアラーム

冬から春に変わったのだ、確実に、と冬子は思う。かたい食べものを欲し、無駄に歯を鳴らす。動物のようだった。噛んでも噛んでもなかなか消えない、かたい食べものがないとそわそわした。

それなのに、図書館の帰りに寄ったロングトラックフーズでうっかりバナナブレッドを買ってしまう。江國香織『川のある街』で、バナナケーキを食べたがる十九歳の妊婦が出てきたことを思いだした。


その後、時間が始まった。彼女は群れを見つけて加わった(あのときの、ふるえるような感動は忘れられない。生まれてはじめて、自分が何をすべきかわかったのだ。この世に一羽きりではなかったことも)。

『川のある街』


彼女とは七歳のハシボソガラスなのだが、冬子は若いひとが自分の進む道をみつけた瞬間のように眩しく読んだ。鳥のことなのに、人のことのように感じるのは愉快だった。

愛しい人が亡くなった後も外国に住みつづける芙美子さんの話では「あわいを生きること」を思う。芙美子さんには認知症の症状があり、だれかと話している途中で長いこと黙りこんだり、徘徊癖がある。でも、本人としては、ひとと話すことで昔のことがつい先日のことのように思い出されるだけであり、歩きつづけるのも歩いても歩いても疲れないから、ただそれだけだった。

芙美子さんの内側は幸福だと思う。日本に帰らず、施設にも入らない。街を映しだす目はいきいきとしている。

認識のずれ、遅れてやってくる「わかっていた」で印象的だったのは、姪が作り置きした料理と自分で焼いたクッキーをすっかり忘れてしまう場面だ。死んでしまったパートナー、希子のものであったくすんだピンク色の缶をおそるおそるあけた瞬間、「わかっていた」がやってくる。自分でクッキーを缶の中にしまい、姪に食べさせることを忘れていたことも。

「もうすこしだけ思いださずにいられたらよかったのにと芙美子は思い、」と続くところが、軽い驚きとともに冬子は好きだった。それがもう、自分を悲観することができない地点にいることだとしても。

それは練習なのかもしれなかった。向こうにいってびっくりしないように。いま生きている場所と死に近い場所をいったりきたりして、あわいを生きる時間がある。そう考えると惚けてしまうというのは自然なことのように思えた。

近くの図書館のドアにはずっと同じチラシが貼られていて、冬子は通るたびに少し苦しくなる。そのチラシは冬子と十歳も違わない女性が行方不明であることを知らせるものだ。若年性の記憶の混乱はなんというのだったか。

最近は電動自転車でも坂をのぼるのがしんどい。歩きのほうがまだましに思えてきた。そろそろ更年期という漠然としたものが自分にもやってくる。楽しめるだろうか。更年期を「光年記」と書いてる人がいて、あかるいな、と冬子は思う。

オールブラン、せんべい、かたいパン。スーパー紀ノ国屋のハパンコルプもかたいものリストに加える。春はすべてが眩しくて疲れてしまうのを思いだす。噛んで噛んで、春を無事に過ごせますように。カッカッカッ、外でリスが鳴いた。




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