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マ・シェリ

鵠沼海岸の駅から少し歩き、シネコヤという小さな映画館へ行く。アキ・カウリスマキの『枯れ葉』を観た。

二十八年前、友人とはじめて観たときから、カウリスマキはロマンチストだ。今回の『枯れ葉』も役者にセリフを言わせるより、音楽が雄弁に語る。

平日の昼ということもあり、年配のかたが多い。母ぐらいの年齢の女性ふたりが映画館で待ちあわせ、始まるまで愉しげに話している。華やかなほうの人がなにか映画のタイトルを言って(趣味がいい)とハッとしたのに失念してしまった。

定員二十二席がほぼ埋まったところで映画は始まり、ちょっと笑えるところで、みなちょっと笑う。鼻から息がもれるような笑いかただ。だれかと一緒に観るということを冬子は久しぶりに思い出した。

みなが笑ったシーンは、恋人を食べるという雑誌の記事を眠りつづける恋人に読むシーンで、江國香織の『犬とハモニカ』にもそんな話があったと一瞬よぎる。


あと一時間もすれば、住宅地の空気は家々の台所や風呂場から漂いでる音や匂いに浸食されてしまう。生活の気配に。でもいまは、自然界の放埒の時間だ。雨雲と、昼の光の名残り、蒸し暑さ、木々の緑。野蛮で濃密で新鮮なゆうぐれが、志那と女の子を閉じ込めていた。

『犬とハモニカ』


志那は恋人の薄く薄くそがれた左手の皮膚を食べ、誇らしく、輝かしく、ある種の食べものは心をつよくしてくれる、と思っている。

冬子は今まで自分にそんな食べものがあっただろうかと考える。食べると誇らしく、心をつよくしてくれるもの。

ひとつだけ思いあたった。自分で焼いたパンだ。粉をはかり、塩、水、少しのイーストを混ぜあわせ、こねる。長い時間生地を寝かせて様子をみて世話をする。その日の温度や湿度、粉によってちょっとずつ変える。まったく同じものはできない。そこがよかった。

粉だったものから素っ気ないがあたたかい、おいしいものができあがる。焼き上がったときも食べるときも誇らしく、自分で作れたことで心がたくましくなったように感じる。菓子作りではこういう気持ちにならない。時間がかかるというのも大事な要素のひとつだった。


「……あなたをこんなところに連れてきて悪かったよ。マ・シェリ、まさかほんとうにいなくなるわけじゃないでしょう?」

『犬とハモニカ』


源氏物語を現代語訳で書いた「夕顔」で突如あらわれるマ・シェリという呼びかけ。なんて艶っぽい。冬子はうっとりした。

表題作の「犬とハモニカ」もよかった。登場人物のなかでは寿美子が好きだった。江國さんは犬と暮らしていて、物語にも犬がたまに出てくる。『枯れ葉』にも犬が出てきた。カウリスマキの作品で犬が出てこない作品はあるのだろうか。

犬を見れば犬がよく、猫の話を聞けば猫にかたむく。悩ましい問題だ。そろそろ決めて一緒に暮らしたい。名前にはしないけど、女の子ならマ・シェリと呼びかけたい。それは春に花が咲くような、冬子には自然な欲望だった。




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