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柳橋

神田川が隅田川へ注ぐちょうどその場所に姿を見せるは柳橋。すぐそばにある両国橋や浅草橋の規模からすると今の柳橋は少しひっそり、かなり控えめな様相を呈しているが、江戸中期以降は花街として大変な賑わいを見せていた。残念ながら花街の面影は残っていないが今も橋のほとりに並ぶ船宿が当時の空気を運んでくれるようでここを通るときはつい足を止めて川や船を眺めてしまう贔屓の橋だ。

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そしてこの柳橋エリアでは数々の名作も生まれている。正岡子規はここで一句詠み、島崎藤村は大正期の柳橋界隈を情景豊かに描き、柳橋在住時にいくつもの作品を執筆している。なんだ、ここいらに住んでいたなら一緒に一杯やりたかったね先生。などと思いを馳せるも柳橋といったら落語の「船徳」抜きには語れない。とりわけ志ん朝師匠の船徳が最高にファンキーだ。

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船頭にあこがれて暫定的に雇ってもらった徳兵衛がひょんなことからまだ経験も無いのにお客を乗せることになってしまう。柳橋から大桟橋(現在の駒形堂あたり)までの運行だ。さあどうなることやら。コントみたいなバカ受け必至のオモシロ噺ではあるが、この時代の川の美しさや船宿の様子なんかが鮮やかに映し出される名作だ。船が主だった交通機関であった当時の「船頭」というのはそれはそれは花形の人気職業だったそうな。船頭は往々にしてイケメンで高収入、女子人気も半端ない。船を出すときには着流しの裾を翻し小唄なんかを歌っちゃう。いなせだねえ。それでいてただツラがいいってだけじゃない、猪牙舟の操作はものすごく難しく物理的な技術はもちろん、初々しいカップルのデート、仕事の接待、急いで目的地に行きたい、客それぞれの要望や空気を察知して「機転を利かせる」的な能力も必須だったよう。てーしたもんだ。

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徳兵衛たちはどの船宿から出発したんだろう。若き日のトーソン君もきっとあの橋を歩いてる。

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浅草橋から柳橋を臨む。下は江戸時代の同様風景。

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昇斎一景「東京名所三十六戯撰 柳はし」(筆者所有浮世絵雑誌より写メ)好きな浮世絵作品ベストスリーに入るこちら。楽しそうだな〜。「船徳」を地でいくような情景だ。余談だが昇斎一景という絵師はどうやら実在しておらずなんと歌川広景と同一人物ではないかという説があるが、大きく同意するし、そうあってほしい。絶対歌川系の作風だよな〜これ。コミカルな表情は初代広重のテイストが息づいてるもんね。

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この舟遊び、若いカップルばかりじゃあございません。イケナイ恋の密会にも一役かっていたようだ。仕事のデキる船頭たちはそんな二人にも粋な計らいをしていたのだろう。当時の江戸ではそんな色恋にもめっぽう優しい。あそこのカミさん間男したってよ、うまいことやりやがったな、どこの野郎だ憎いねこんちくしょーなんて笑い話になっておしまい。江戸っ子たちはゴシップ好きでも誹謗中傷はしない。ましてや寄ってたかって誰かを叩くなんてことはダサさの極み。長屋の娘が旅からお腹が大きくなって帰ってきても細かいことは詮索せず町内みんなで大事に子供を育てたり、まあ優しくてあったかい。というかゆるい。なるほどこんな粋な環境なら世界に誇るポップカルチャーが次々と生まれるわけだ。お後がよろしいようで。

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