家を追い出されて友達の家に居候していた話━━━京大多浪交流会創設者の受験失敗記part4 2浪編(完結編)
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仮面二浪残留のメンタル事情
本当に死にたかった。何が厳しかったかを端的にまとめると
二年遅れ(20歳を迎えるというのが本当に心にくる、年金の書類が来たり、面目的に参加できない成人式が来たり)
国立大学じゃない
就職への不安
大学で居場所がない
ということである。二年遅れだと高校の後輩が先輩になる。レアリティも1~2%のレベルだ。
そして結局慶應理工である。東大との差は計り知れない。
そして、残留したらサークルの人たちに合わせる顔がない。なんなら私は慶應高校出身なので後輩が教室にいるというのがしんどい。
当時のメンタル事情は本当に酷くてあまり詳しいことは書きたくない。書けないレベルなのだ。
当時の生活
慶應大学に復学して授業を受けていた。友達はできなかった。通学中、歩けなくなって親に来るまで送り迎えしてもらうことが何度かあった。おれの人生はここで終わりだと思った。
単位は割と結構とれた。とはいえ4コマくらい必修を落としたので、もし京大に行けていなければ留年だった。
浪人は当然続けていた。受験勉強はしなかった。できなかった。本を開くとゲボを吐きそうになった。
テレビで東大関連の人や映像が出てくるとその度に大声を出して叫んでいた。近所迷惑になっていた。江戸時代だったら妖怪扱いされてたのかもしれない。
結局二浪目はほとんど受験勉強をしていない。強いて言えば理科を化学から生物に変えたのでそのためにスタディサプリで勉強していたくらいだ。
京大理学部に志望変更
もともと京大は好きだったので夏頃志望変更した。理由は
偏差値が理一より少し低い
入試の数学の計算量が少ない
二浪に寛容そう
楽しそう
という理由だ。
実家を追い出される
11月ごろに些細なことが原因で親父と大喧嘩した。そして割と親父が全ての権限を握っている家だったこともあり、実家を追い出された。
寒かった。もうほぼほぼ冬で、厚着する時間も与えられず追い出されてしまった。終電がなくなったので仕方なく友達の家まで20kmほど歩いた。例の早稲田アカデミーのLINEグループの一人の家である。
彼には本当に頭が上がらない。彼の家族は彼を残してみんな海外に行っているというエロゲ展開だったという幸運もありがたかった。
彼の家ではずっとスプラトゥーンをやっていた。一緒に鍋とか食ってくれたのは10代までほぼほぼ友達がいなかった私としては本当にありがたかった。
ずっと彼の家にいるわけにもいかなかった(たまに出て行く必要があった)のでネカフェ泊していたときもあった。
2016年の大晦日、ネカフェで年を越したことをよく覚えている。
正直二浪目の記憶はほとんどない。そもそも何もイベントはなかった。貴重な十代最後の年は鬱に消えた。
入試
私の母親は過保護タイプのやばい親なので入試一週間前から宿を勝手にとった。そして母親同伴で京都に行くことになった。キモすぎる。
入試当日
変な像が立っていた、クジャクがいた、おもしろい看板が立っていた。そこは、お祭りだった。
ここに来てはじめて本気で京大に入りたいと思った。なにか救われた気がする。
数学が全然できなかった。わからなすぎて特に理由もなくトイレに行ったが、結局わからないことには変わりなかった。
終わったと思ったが、諦めず二日め頑張った。のちのち自己採点したところ物理満点だった(この年物理で出題ミスがあったことは付しておく)。
試験が全て終わって、感触としてはよくなかった。落ちたと思った。
しかし、結果的には合格だった。開示では相当ギリギリだったようだ。
割とほんとに死ぬ直前だったのでなんだか延命してしまったなあという感じである。
その後
試験7日前に京都入りして母親が何をしていたかというと、私の京都での新居を確保しようとしていたらしい。しかしながら母親はキモいのでそのことを隠しており、私は合格発表後独自で不動産屋で物件を探した。
ありがたいことに最高の物件が見つかったのでそこに4年間住むことになった。どうせ、母親の物件は、母親が選んだという事実だけでキモくて住めないのでいずれにせよ却下されただろう。
結局親父とは実家を追い出されてから5年ほど会わなかった。実家に帰りたくなかった。
実家から離れたことで20歳にしてやっと俺の人生がはじまった。京大入学後もいろいろあったけれどもそれはまた別のお話。
Fin.
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