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選択できる幸と不幸

壮絶な一冊を読んだ。

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概要はもうこの表紙のとおりで、

冒頭には

すでにこの世に生を受け、そして生後三ヶ月で亡くなった子ども。生まれ、死んだ我が子を「出産するか中絶するかを自己決定する機会を奪われた」とはどういうことだろうか。

とある。


ダウン症の子どもを持たない、出生前診断を受けたことのない分際にして

生意気にもこの母親に怒りを憶えた。


そして早くも、そのことを後悔した。

この訴訟を起こした母親、光の言葉がわかりすぎて。

「決断というのは、迷って迷って、崖に落とされそうになって、最後の指一本でつかまっているギリギリのところで決めるものだと思うのです。だから、中絶していたかどうかということは言うことができないんです」


妊娠したら産むか、中絶するかしかない

“中絶”という衝撃が強く思えるこの言葉について

考えたことがない人生ではなかった。

妊娠がわかったとき21歳の誕生日を迎えたばかりの大学生だったこと、

子どもの父親に精神疾患があったことから、

親にも話したことはないけれど、考えなくはなかった。

そのとき初めて、

妊娠したら産むか、中絶するかしかないのだという

至極当たり前のことを知った。

ほんの1ヶ月前に戻って、なかったことにすることはできないことを

本当の意味で知ったのは、恥ずかしながらこのときだった。


早ければ小学生や中学生ですら知っているであろうことを、

初めて門を叩いた産婦人科のカウンセリングルームで

助産師さんから「どうする?」と聞かれる瞬間まで

自分ごととして本当の意味でわかっていなかったことを恥じたけれど

果たして、本当の意味でわかっている人が

日常的に性行為をしている年齢の男女でどのくらいいるのだろうかとも思う。


状況は違うし、

わたしが置かれた崖はこの母親の足元にも及ばないほど

自己責任であり、どうしようもあるものであることは

重々承知しているけれど、

ここまで徹底して三択目がない選択は人生で初めてだった気がした。

その意味で、崖から落ちないと決断はできない

という言葉はすごく印象的だった。

崖っぷち、落ちそう、崖にいた、ごときと

実際に落ちることはまったく別なのだと考える気持ちに

辛うじて少し憶えがあったから。

「気持ちがわかるから」とはどうしても、わたしには言えない。


怒りの行先

そうして早くも母親に対して

怒りを少しでも感じたこと自体を反省したけれど、

それでも一冊を読み終える間

ずっと誰かしらに怒(いか)っていた。

医師に、弁護士に、国に、自分に──。


恵まれた環境ではあったものの

比較的、低い年齢で在学中に出産したこともあって、この4年間

孤独に出産した母親が死体遺棄の容疑に問われる事件、

技能実習生の妊娠と彼女たちが置かれている環境、

少子化を嘆くばかりで未だに保険すら適用されない不妊治療、

シングルマザーの貧困や再婚・内縁の夫が子に与える影響、

そういった分野についてのニュースや書籍は

手に取るようになっていた。


出生前診断についても、

もしもわたしが今後、もう一度子どもを設けることがあったら

そのときは受けた方がいい年齢かもしれないこともあるし、

だからと言って結果を理由に中絶はできないことも知っていたし、

だからと言って検査で陽性が出た9割が産むことを

選んでいるわけではないことも知っていた。


知っていたけど、落ちていないこの谷のどん底は

“知っている”程度では、

谷の存在なんか感じない場所で山の風景を眺めているに過ぎないほどに

その現実と距離があることを知った。


現実をノンフィクションという形を通して垣間見た今、

この国にはオリンピックなんかよりもやるべきことがあるのではないか

みんながみんな見て見ぬふりをすることこそ

谷に落ちた人を苦しめるだけではなく、差別なのではないかと怒った。


適切に怒ることは大事

怒りのやり場がない、

責める人がいないことは苦しい。

許せない人を、責められないことは苦しい。

怒ってもどうにもならないことで怒るのは苦しい。


おこって当たり散らすことを思えば

それはもちろん感情の八つ当たりだと思うだろうけど、

怒りが湧いて然るべきときに

それをしっかり向ける矛先がないことは

八つ当たりにかかるのと同等のパワーを心に与えると思う。


そのことを結婚生活で学んだわたしは

自分以外の誰に対しても期待しなくなったし

怒りの感情が湧いたときには

怒らなければならなくなる結果を招いた人と関わることを選んだ

わたしが悪いと思うようにすることにした。

究極の自責思考なので、

病んでるみたいに聞こえてしまうけど

意図的にこの考えをしていると意外と病まない。


それにしたって、我が子一人の命が関わったここまでのことを

完全に自分のせいと思えるだろうか、

思えなければ真っ向から医師に怒りを向けられるだろうか、

見て見ぬふりをしてきた国に向けてどうにかなるのだろうか。

そう考えると、彼女の抱えたつらさは計り知れない。


子どもにとって

この訴訟で、母親が重視したことは

お金や自分たち夫婦への賠償責任ではなく

生まれてから一度も外の空気を吸うこともなく

見るに耐えない治療を常時施されて亡くなっていった

我が子に対する謝罪の気持ち。


誤診がなければ、この世に生を受けていなかったが故に

苦しむこともなかったのではないかという主張。

たしかに、そう。


でも、実際生まれて3ヶ月という短すぎる時間であっても

生きた我が子が、生まれない方がよかったというのか

と言われたらそれはまた違うとも思う。


論理的に言えば、

誤診の末に生まれて苦しみ亡くなった我が子への損害賠償を請求することは

生まれて生きた我が子の存在を損害と捉えることと

同義なのかもしれない。


だけど、わたしは違うと感じたし、違うものだと思いたい。

むしろ、3ヶ月間我が子が生きた姿を誰より近くで見て

誰より悲しみ、苦しみ、つらい思いをしたからこそ

我が子への謝罪を求める損害賠償請求をしようと思うのでは?

今さら勝訴して金銭が入ったところで

失った我が子は戻ってこないし、

時を戻して我が子を五体満足で産んであげられるわけでもない。

それなのに、費用とパワーをかけて裁判をするのは

ここで母親である自分が戦わなければ

この世で最も弱い存在でありながら、私たち大人でさえも経験し得ない

苦痛を3ヶ月生き、死の恐怖に向き合った子どもが報われない

そう思って当たり前なのでは?


3ヶ月という期間は人生にしたら本当に短いものだけど、

3ヶ月に及ぶ闘病生活なんて経験したことのない人が大半だと思える長い時間。

その描写は本当に辛くて、

亡くなった後に葬儀前の一日だけ自宅に連れて帰るところ、

温かい間に胸に抱くことができたのはたったの一度だったこと、

たった一度、生かされているに近い状態だったけれど

どれでもしっかりと温かったこと。

どれももちろんわたしが経験したことではなく、

ただ連なる文字を読んだだけなのに

思い出しながら言葉にするだけで涙が溢れる。本当につらい。

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娘の生後5日目、黄疸が強く出て退院ができず、

目を隠してライトに当てられていたこと、

その間は泣いても抱っこしてもらえない、してあげられなかったこと、

わたしは予定通り退院して帰宅したけど

授乳のために3時間おきに病院に来るのに帰宅後2時間くらい経つと

心配でかわいそうで家で泣いたこと、

結局夜中の2時くらいに授乳に行ったら涙が止まらなくて

帰れなくなってしまって、手ぶらで急遽延泊させてもらったこと。


今では、うちも黄疸やったよ!

目隠しのガーゼにサングラス描いてた!って励ましのネタだけど、

当時はたかが退院時の黄疸であんなに動揺したことを思うと、

その比でもない3ヶ月間は想像を絶する。


医師側の弁護人の

障害児に苦痛の認識能力があるか(表現は違うかもしれないけど要はこう)

という発言は、本書で一番憤りを感じた。



けど、この取材の中には、この子よりも短い1日という命を生きた子ども、

数日しか生きられないとわかっていて産んだその子の母親の話もあって

本当に正解なんてわからないし、正解なんてないと思った。


数日を最上のものにするために尽力してくれた夫婦の元で

たった1日でも生きたその子は幸せだったと思いたい。

もちろん、生きた3ヶ月間のすべてが壮絶な闘病生活だったとはいえ

誤診があったからこそ生を受けることができた天聖くんも

たった一度でもお母さんに抱かれることができて、

家族に待ち望まれて生まれてきて幸せだったと思いたい。


胎児に病気や重い障害が見つかったとき

それを理由とした中絶はできない決まりになっているけれども

実際は経済的理由の内にできてしまうこと、

生まれてきた後も

治療をするか、緩和ケアをするか、親に決定権があること

もうそのどれもすべてがつらすぎると思った。


知る権利

本書を読んで、当時の記事を読んで

これだけいろいろと感じて、考えても、結論に辿り着けない。

もし、高齢出産と呼ばれる年齢で出産をすることになったとき、

そうでなくとも、近い将来もっと手軽に、もしかしたらベーシックに

出生前診断を受けられるようになったとき、

わたしは受けるだろうか。受けるべきなのか。

陽性だったら産むのか、中絶するのか。


あえて、産むのか、産まないのかとは言いたくない。

いうまでもなく、産まないことは中絶することであって

目を逸らしたくても逸らす先のない究極の二択だから。


日本で法律が医療技術の進歩や現状に追いついていない理由は

優生思想なども深く関連していて

ここでは触れないけど、本の中ではそこについても取材していて

実際に、中絶を選択する母親が多い障害とともに生きている人がいる。

その人たちや、その人たちを産むことを選んだ母親は

決して否定できるものではない。

いろんなことに挑戦して、幅の広い人生を生きてほしいと思う。


その反面、孤独出産の末の死体遺棄などが

五体満足の子どもと母親の間でも起きていることを考えると、

介護や健常児以上の世話が必要な子どもを

絶対に産まなければならないと決めてしまうことも

それはまた新たな不幸を産むのではないかと思う。


きっと、わたしは決断できない。

崖から落ちても決断できない。

そういう人間には知る権利がないと思う。

きっと、検査はしないだろう、と今は思う。

自分は知る権利を持つ立場にないということを

知ることができたから。


いつも言うけど、わたしにとって本や映画の善し悪しは

その内容自体や、作品を通しての主張の是非や、結び方ではなく

その本や映画を享受した意味があったと思えるかどうか。

その意味合いでいくと

非常に大きな問題意識と、考える機会と、

谷に落ちてすらいないわたしなんかでも感情を揺さぶられる

意識しないと息が吸えなくなるような世界を

その存在を通して見せてくれたことはとても大きい。


天聖くんの生きた3ヶ月が幸せなものだったとは

とてもわたしなんかが言えることではないけれど、

彼が3ヶ月生きた意味は間違いなくあったし

彼とそのお母さんが病気と世間と戦ってくれたことには

絶大な意味があると思う。

誰もがなれる立場ではないからこそ、

ノンフィクションを通して擬似体験(ということすら恐縮だけど)させ、

考える機会を与えていることに心から感謝したい。

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