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私の経歴と、おひとり様支援&中小企業支援の行政書士から、女性起業家支援へ

1.   私のこれまでの経歴と生き様

(1) 職歴
 私の両親は教育者で、周囲も、私が教員になることを期待していました。
その為、一応、教員免許は取りました。
 しかし、当時は社会・経済が、《堅実に》目まぐるしく動く「本当の日本の黄金期」とも言える時代でしたし、「公務員を20年続けてきた者は、民間では使いものにならない」と言われていました。
 その為、経済が動くところで働きたいという思いが強く、それに加えて、私は、周囲の期待への反発もあり、民間企業への就活をはじめました。

 関西では、女性は男性社員の嫁候補として採用する企業も多く、その為、短大卒が中心でした。「大卒は、理屈こねそうで可愛げがない、お茶も入れなさそう」などの理不尽な理由で、京都では採用ゼロで、大阪で5社のみ募集という状態でした。
 当然、京都・兵庫・奈良などの大卒女子が殺到しました。中には、マスコミへの宣伝のために就活生を利用する様な企業もありました。当時は、今の様にキャリアセンターやマイナビ登録、就活フェア、就活支援の官民団体もありません。
 色々紆余曲折がありながらも、最終面接で15名の役員面接を経て、キヤノンに採用されました。帝国ホテルで新製品をマイクデモしたり、顧客の社長さんなどを回ったり、代理店の方と一緒に会社を回ったり、充実して過ごしました。

 その後、機会があり、外資半導体メーカーの日本テキサス・インスツルメンツに転職します。ここでは、男性社員や代理店の方やメーカーと一緒に自社工場や家電やパソコンメーカーを訪問したり、納期管理、係数管理などもしました。 


(2) 私の生き様
 こんな風に書くと、順風満帆の様に見えますが、そうではありません。
 
 私の本当の人生は、次々現れる壁を必死で叩き壊してきた人生です。
 
 もともと、私は未熟児で身体も弱く、幼稚園も休みがちでした。
家には大量の本があり、絵本より大人の本を読んでいた為、幼稚園の時に住所氏名など全て漢字で書ける子供でした。
 当然、父をして「お前は世拗ね人のようだ」と言わせるほど、考え方もひねていました。
 そのため、幼稚園でも小学校でも話が合わず、事実に反する誹謗中傷、いじめや村八分状態は茶飯事でしたし、卒業式後に教室に居場所がないため戻らず、一人で帰ったこともありました。
中学以降になると努力もしたし、周囲もマシにはなりました。
 
 後述する出来事もあって、私には、圧倒的な《他人に対する不信感》がありました。この不信感は、様々な壁にぶつかった時に、思わぬ支援を受けたりする事で、徐々に消えていき、今では「めちゃくちゃ明るい」と言われていますが。

では、どの様な壁だったか。
 
 そもそも、就職後、早稲田の理学部大学院に行っていたはずの弟が、霊感商法で有名な統一協会に入りました。しかも、そのことを私は全く知らされておらず、母からは「アメリカに行っている」と嘘をつかれていました。当時の婚約者の親にそう伝えたところ、相手の親が真実を知っており「嘘つき」として《破談》になりました。私が、昔から弟に甘かった母を大罵倒したことはご想像通りです。

 その後、父の四十九日に、父が保証人になっていた母の弟一家が《夜逃げ》しました。
 次に、父の一周忌にならないうちに、借地だった我が家の土地を父の兄が買おうとするのを阻止するため、老後資金のためにと、学生バイトや、給料もほぼ丸ごと貯めてきた3,000万円を土地購入の為に使い果たし、《文無し》になりました。
 
 また、《ストーカー》被害や、当時付き合っていた人が《DV、モラハラ》だったりで大怪我をしたり、警察が被害の証拠隠滅したりと言ったこともありました。これにまつわる《裁判》も数多く経験しました。
 
 さらに、父の死後、ショックを受けていた母を利用し、地元の小さな百貨店の外商が、足繁く私のいない時間に母を訪ねてきて、展示会などに連れ出し、着物や陶器などを大量に買わせていた《詐欺被害》が発覚。
 当該百貨店から経理書類を取り寄せ、代金を外商の個人口座に振り込ませていたり、年金全額だけでなく、第三者から1,200万円の借金をさせて、さらに購入させていたこともわかりました。
 ここでも右京警察の刑事課長は、「刑事で訴えると、民事で請求できなくなる」と公然と嘘をつき、私が被害申告したことを、逆に、当該百貨店に《告げ口》する始末。一般市民にとって、最後の砦である警察が機能していない現実を知りました。

 介護をしながら、借金返済の日々が始まります。
自分が何か問題を起こして、というならわかるのですが、《親絡みのこと》で、なんで私が・・と思いました。
 同じ兄弟でありながら、私の縁談をつぶして迷惑をかけてきた弟は、《1秒》たりとも介護もせず、《1円》たりとも出していません。そのくせ、私が買った土地は弟が持っていくのです。理不尽の極みです。


 そこで、両親が亡くなってから、おひとり様の介護や生活支援の《NPO》を設立したものの、ほぼ慈善事業でやっていたため、大赤字でした。
 いくら利用無料でも、これでは逆に利用者の方に迷惑をかけるし、《支援したい「想い」》だけでは無理だと悟りました。

 このままでは、生活が成り立たないため、就活を開始。
介護離職後の再就職の厳しい現実を乗り越え、病院広報で採用されたものの上司の《バワハラ》が酷く、キャリアコンサルタントの資格を取って、京都市や京都労働局に転職しました。その後も勤務しつつ、いくつかの資格を受験し合格。


2 .  行政書士としての1つ目の柱

 私が、勤務時代に《行政書士登録》し、労働局を辞め、「おひとり様支援の行政書士」を目指したきっかけは、やはり両親の介護でした。

 早くに両親を病気で亡くしましたが、亡くなる前は合計十数年間、看護・介護に
明け暮れる日々が続きました。
 持病もあったため、要介護5の状態で、深夜になると「しんどい」と訴えるため、毎日深夜に病院の救急外来へ。「検査技師が帰っているので明日来て」と言われるのは100%承知の上です。でも、放っておいて万一の事があったら取り返しがつかないから、毎日連れて行く、という日々でした。


 若いうちは気付きませんが、高齢者は夜になると不安を感じられる事が多く、私の両親はその典型でした。
 当然、仕事は継続できず、やりがいを感じていた職場を介護離職。
 「ああ、両親は私に見て貰えるからいいけど、介護が終わったら私の人生は誰が面倒見てくれるの」と言う将来不安に苛まれる日々。

 懸命に、少しでも良かれと、介護を続けても、持病自体もどんどん悪化していく日々、心が折れないはずがありません。にも関わらず、心ない言葉も出てくるなど、「この首を絞めたら楽になれるのか」と思い詰めたことも。この時ほど、ひとり介護の重荷や大変さを思い知ったことはありません。
よく、介護殺人がニュースになりますが、ほぼ100%老老介護を含むひとり介護の場合です。

 人は経験しないことは分からない生き物です。想像はできるかもしれませんが、その感情までは分からないのが普通です。
 介護の手を汚さない者に、介護の苦悩はわかりませんし、当然、寄り添った支援はできないのでは、と私は思います。

 
 いざ、介護が終わると、今度は自身を介護してくれる人さえいません。
 また、おひとり様となって、入院一つをとっても身元保証や身元引受を要求される理不尽な差別のある現実も実体験し、《おひとり様に、せめて家族がいる人並みに、安心して頂きたい》と思いました。
 おひとり様の身になって初めて分かることもいっぱいあります。
家族がいる人とおひとり様が、同じ支援で良いはずがないと私は思いました。

 長年の介護を通じて得た実体験や、おひとり様として生きてきて感じた不安や、
不自由な待遇の実体験から、【おひとり様にも、せめて、家族がいる人と同じくらいの安心感を持って欲しい】と言う思いが強くなり、シニアの方、特に、おひとり様のご支援を、残された生涯の仕事としたいと思うようになりました。


 【シニアの方、特に、おひとり様が安心して暮らせる世の中】、その様な世の中は、障害のある方や投薬治療の必要な方も含めて、みんなに優しい世の中だから。

 そこで、取得した資格や人脈も活かしつつ、終活・施設選択・ヘルパーなどの身体介護・身元引受・自宅の活用・死後事務・相続など、シニアのお悩み・お困り事をワンストップで全部解決して差し上げる「おひとり様のなんでも支援の行政書士」として事務所を立ち上げました。

 エンディングノートや遺言を書いて終わりという、不安払拭に直接繋がらない形だけのご支援でなく、本当のご不安やお困り事を解決し、安心して、尊厳の保たれる環境で、残りの人生を謳歌して頂ける様に、誠心誠意ご支援させて頂きます。
 ぜひ、お気軽にご相談ください。  ご相談は無料です。


3.  行政書士としての 2つ目の柱

 私には、もう一つ仕事の柱にしている事があります。
それは、京都の中小企業、とりわけ製造業の小規模事業主の支援です。

 そう思った原因は、地元京都の代表的伝統産業の一つである西陣織の何百年も途絶えることなく続いてきた高度な技術が、平成のたった30年の間に、形だけしか見ていない行政の無理解により途絶えてしまったことにあります。

 西陣織は、織り手を養成すれぱ良いという単純な産業ではありません。
西陣織には様々な職人が数多く関わっています。蚕を育てる人、糸を紡ぐ人、金糸銀糸を作る人、図案を作る人、織り手さん、、
 中でも重要なのは、機織り機であり、機織り機を作れる職人、修理・調整できる職人、機織り機の部品を作る職人など、多くの人が関わっていました。

 この、機織り機と、機織り機に必須の部品を作る職人が高齢のまま後継者がいないために、西陣織関係者は、20年近く前から京都府や京都市に訴えてきました。

 しかし、行政は、外国人観光客誘致のために小学校を統廃合し、空いた土地に外資ホテルを林立させる金儲けには興味があっても、数百年続く伝統工芸を自分たちの代で潰さないということには興味がありませんでした。
 (ついでをいうと、京都には隣組や町内会が明治からきちんと組織され、行政の不備を補う様に、町内会の人間が金を出し合って小学校を建設したりしていました。その町内会=市民が出資して建てた小学校を、統廃合と称して潰してホテルにしているのです)
 
 
 結果として、その部品を作る技術は平成・令和で完全に途絶えました。
 戦国時代も幕末も戦争中も戦後の物資の無かった時代も乗り越え、数百年続いた西陣織の正当な伝統は、何の困難もない平成の時に終わったのです。

 
 西陣織業者も、3Dなどで部品を再生していますが、3Dごときが日本人の繊細な指の感覚を再現できるはずがなく、以前の品質を保つのに苦労されている様です。
 そして、この悲劇は、養蚕業者、白生地製造業者なども同じ道を辿っています。
今や、西陣織の帯などだけでなく、室町の着物産業にも影響が出始めています。


 そして、これは、西陣や室町だけの問題ではありません。
外資が京都企業の乗っ取りを図っている現実に、防止策を講じるどころか支援金さえ出している行政を見るにつけ、京都にある航空機など先端技術の部品を作る企業も含め、全ての製造業が同じ経過を辿る危機さえ感じました。


 製造業は小さな部品・パーツこそが命であり、それを蔑ろにする事は私の中ではあり得ません。そのことが分からない者が政策を作っている、その不備をなんとか微力ながらご支援したいと思いました。
 加えて、国は、日本経済を牽引する産業を育成するのに必要な基礎研究や新規技術開発への予算を縮小する一方で、技術大国と言われた日本にも翳りが見えています。

 
 行政がしないなら、何としても地元京都の会社が長年地道に苦労して産み出した技術を守りたい、京都の会社や技術をこれ以上食い物にさせたくない、数百年の技術を未来に責任を取らない役人が潰して良い筈がないという思いから、2本目の柱を、「製造業の中小企業支援」としました。


 当然、私が中小企業を守る術を全て知っているわけではありませんし、製造業の全ての業界知識に精通しているわけではありません。
 しかし、そこは事業主の方が既にご存知のはずです。
 大事なのは、どこにコストをかけるべきなのか、分配がおかしかったり、自社のポテンシャルに気がついておられないなど、多くの企業は似たような課題を抱えておられると言う点です。

 その課題を、お話しやお悩みを丁寧に傾聴し、質問を繰り返して自問自答して頂く中で、隠れた課題を明確化・顕在化させて頂き、本当の解決に向けて、ご一緒に伴走しつつ、納得して頂けるご支援をさせて頂きます。



4. 新たな挑戦=女性起業家支援

 いろいろな企業や個人商店などを回る中で、統計上は1,500万人いるとされている筈の個人事業主なのに、あまり女性が表に出てこないことに気づきました。

 女性起業家は、必ずしも実店舗を持っていないのではないか、であれば、その様な女性起業家を法的・制度的に守れる人の支援が不十分ではないか。
 色々な経済団体などから情報を得られる男性事業主と異なり、情報弱者だったり、私の時の様に、介護・育児の矢面に立ち事業に支障が出ることもあるのではないかとの気づきから、新たな柱として、女性起業家に特化したご支援も始めました。

 女性起業家の想い、想いだけでは難しい現実、女性起業家を食い物にする業者、
色々なことから法的・制度的・精神的にもお守りし、《想い》を叶えて頂きたいと願っています。

 また、親の介護や家族の病気などの突発的なことが起こっても、事業を停滞させない様に、きちんと契約などでお守りします。

 まずは、想いと、経済的自立を叶えるために、しっかりお話をお伺いし、お困りごとを解決するにはどの様なことが必要か、ご一緒に伴走して、お支えしてまいります。

お気軽にご連絡ください。  contact@kyoto-taiyou.com


©️2023  ようてんとなーたん


















































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