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私を形づくった夏の一日

今の私を形づくったと、そう確信できる一日がある。知識が十分になく、関心も定まっていない、まっさらで空っぽだった私の輪郭を、くっきりと描いていく契機となった一日が。

ふと何かの拍子に、清らかな風鈴の音とともに、淡く遠い夏の記憶が鮮明に蘇った。

すべての発端はSNSだった。当時、思いがけず急接近した友人と過ごす日々に心を弾ませ、多幸に浸っていた私の頭の中には、なぜか止めどなく言葉が溢れていた。ただ単純に楽しいとか、うれしいといった言葉では表現しきれない感情に絶えず心を支配され、その一瞬間のひとときを、頭の中に次々と浮かぶ言葉を、どうにかして形として残しておきたいともどかしく思い、そのため手段として、私はツイッターを始めた。浮かんだ言葉をありのまま、ため息のように吐き出す、まさに呟きそのものを投稿していた。

はじめて一週間が経ったある日、19歳の少女からDMが届いた。はじめましての挨拶から、読んでいる本の話、敬愛する人の話と、次々と話題が移っていくうちに、「お会いしてみたい」と突然告げられた。
言葉を交わして間もない誘いで、当然戸惑いもしたけれど、福岡というはるか遠くから東京を訪れる、少女のまっすぐで純粋な熱意に負けて、すぐに会うことになった。

待ち合わせの乃木坂駅に着くと、さっそく少女と思われる華奢な女性を見つけた。顎のあたりで切り揃えられた、艶やかでストレートな髪と、淡い水色のプリーツスカート。その隣には、少女の知り合いであるという、背が高く眼鏡をかけた青年が立っていた。どこか輪郭のぼんやりとした、弱々しくやさしい雰囲気の人。よそよそしい挨拶を交わすことはなく、落ち合うとすぐさま目的地へと向かう電車に乗り込んだ。

短い時間で東京のあらゆる場所を巡った。
休館日で断念した国立新美術館、流れるように辿り着いたボリス雑貨店、ビビッドなカラーに染まった現代アーティストの展示、休息のタリーズコーヒー。

最後に訪れたのは、エスパス ルイ・ヴィトンの展示室だった。
エレベーターで上階に進んでいくと、室内のはずなのに蝉の声が遠く聞こえてきた。

声の聞こえる方へ歩み進めると、ひとつの部屋の中に異空間が広がっていた。
ガラス張りの室内に、大きなスクリーンがふたつ。緑溢れる森を映し出したものと、荒野のような、さびしく殺風景な場所を映し出したもの。風景の中には、いくつもの風鈴が立ててあり、ふたつは向かい合うようにして展示されていた。スクリーンの前には土が敷かれ、その上には草花が点々と散りばめられていた。

ほのかに感じる土の匂いと、夏のまぶしさを思い出させる蝉の声、そしてその声と共鳴し合うように、透き通ったきれいな音で風鈴が鳴り響いていた。

現代アーティスト、クリスチャン・ボルタンスキーの、アニミタスIIという作品だ。

空間の中から何かを感じ得たいと思い、ふたつの作品の中央にあった観賞用の椅子に座って、じっと風景と向き合っていたら、私の隣に腰掛けた青年が、細々とした口調で「風鈴の音は死者の魂の声だ」と教えてくれた。やさしく消え入りそうな声だった。

たったそれだけの説明だったのに、不思議と私の耳に届いていた響きは姿形を変え、さっきまでとはまるで違ったように耳に届いた。一瞬で、その空間は死者を悼む安らかな霊園に変わっていたのだ。静かに、小さく震えるような、凛とした音が心に沁みていく。目を閉じて、そっと死者の声に耳を澄ませ、思いを巡らせた。

流れるように何気なく過ぎていった時間だったけれど、インスタレーションという言葉を覚えることさえやっとだった私に、美術に触れる機会を与えてくれた、ほんとうに大切な一日だった。

美術館に足を運び、本を沢山読み、言葉を綴り、映画鑑賞に浸り、そんなふうに芸術に多く触れる生活に導いてくれたきっかけは間違いなくこの一日だったと、思い返すたびにそう確信する。
決して私一人では見つけることができなかった生き方だ。

人との巡り合わせによって、私は変わっていくのだろう。
偶然出会った友人に、名前も知らない人に、少しずつ影響を受けながら、これまでとは違った私らしさを見出していく。

ちりんと、強い陽射しの中で小さく涼しげに鳴る、風鈴の音。
あの音をきくたび、私は遠いあの夏の風景を、草原の中でやさしく響く死者の魂の声を、ゆっくりと思い浮かべるだろう。

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