【世界遺産 吉野】日本史の迷宮・𠮷水神社
奈良県吉野山にある𠮷水(よしみず)神社は、天武天皇(673-686年在位)の時代に、役行者によって創建された、吉水院という修験のお寺だったそうです。
明治時代の神仏分離政策で、南朝・後醍醐天皇の皇居とした時期があったことから神社に。
𠮷水神社は、飛鳥時代から近代にわたる歴史上の人物の所持品が残されている、博物館のようでした。
桜を見るためだけではなく、今でいうパワースポットのような場所だったのかもしれません。
(今回は金峯山寺の行事に参加してから、𠮷水神社へ。ここまでの記事はこちら ↓)
こちらの参拝は、二礼・十七拍手・一拝。難しい!
関西で楠 正成をお祀りしている神社仏閣はいくつかあると思いますが、皇居外苑にも立派な銅像があるそう。
後醍醐天皇に最後まで忠誠を尽くした、人気の武将なんですね。
なぜここで明治天皇??
あとの展示品にもつながるので、調べて出てきたことを簡単に。
「南北朝時代は南朝が正統で北朝は間違っていたが、皇統統一後は北朝系の皇族が皇位を引き継いでいる」という明治天皇のお言葉があったとか。
明治天皇自身は北朝系ということになっているので、本当ならば驚くべき発言なのかもしれません。(※明治で南朝系に入れ替わった説あり。)
どちらでも天皇の血筋に違いはないですが、南北朝の争い(1337-1392年)は、明治維新にも影響していたようです。
弁慶が手で岩に釘を打ち込み、追っ手を威嚇したという石。
豊臣秀吉も弁慶の力と勇気にあやかりたいと、この石を触ったとか。
最初からいろんな有名人の登場に、既に頭が大混乱!
拝観料を払って中に入ります。
覚えきれない程の展示品でしたが、写真撮影OKで助かりました。
多すぎてややこしいので、人物別に抜粋して紹介していきます。
◇源 義経
奥の部屋は、源 義経と静御前が過ごした場所。
(ここで静御前とは別れ、義経・弁慶はさらに女人禁制の大峰山へ逃げる。)
3人が残した所持品も、展示されています。
静御前の鎧は、義経・弁慶と一緒に逃げていたことを想像させます。
四天王寺・住吉大社(大阪)に足跡を残し吉野山に入ったようなのですが、おそらくこのあと興福寺(奈良)でかくまわれた後、比叡山へ。
そこから岩手県平泉にまで逃げ延びたけれど、頼りにした奥州藤原氏の襲撃をうけ、義経は妻子とともに自害、となっています。
(奥州藤原氏の理想郷・平泉を訪れた記事はこちら ↓)
僧兵に捕らえられた静御前は身ごもっていて、鎌倉に送られました。
義経への愛に生きた、強くて美しい白拍子。
別れたあとにも、義経を想った悲しい舞の逸話が残っています。
◇後醍醐天皇
きらびやかな後醍醐天皇のお部屋は、豊臣秀吉が修繕したものだそうです。(秀吉も花見のため5日間滞在。)
◇水戸光圀
なぜここで「水戸黄門」で有名な徳川光圀?
調べてみると、光圀が記した「大日本史」では後醍醐天皇の南朝が正統と位置づけ、これが幕末まで定説となっていたそうです。
◇役行者・空海・小野 篁
役行者(役小角・634-701年伝)の所持品には、初めて出会いました。
伝説上の人のような役行者ですが、道具を見ると実在していたことをリアルに感じられます。
弘法大師・空海(774年-835年)作と伝わる作品も!
夜は閻魔庁の役人だったという伝説を持つ、小野 篁(802-852年)。
頭がパンク状態になりながらとりあえず写真を撮りましたが、他に一休宗純や本居宣長の書などもありました。
◇豊臣秀吉
外の庭は豊臣秀吉が1594年に、徳川家康、伊達政宗などの武将たちと花見をしたという場所。
伊達政宗は山伏に仮装して芝居をし、秀吉たちを爆笑させたとか。
1598年に京都で『醍醐の花見』をしたことは有名ですが、それより4年前に吉野で、壮大な花見をしていたんですね。
今でこそ電車・ロープウェイで簡単にここまで来れますが、戦国武将たちが各地から山を登り集まったことを想像すると、ただごとではないような・・。
秀吉は天皇ゆかりの場所でもある吉野に滞在し、武将たちを試したのかも。
5日間にわたり、歌や能・茶会を盛大に開催、5,000人が集まったそうです。
もともとは、修験者が大峰山からの無事の下山を祈る場所だったようですが、後醍醐天皇もここで「九字真法」による邪気祓いをしたそうです。
ここは古代から近代に至るまでの、大きな歴史に関わってきた場所でした。
歴史上の人物たちが、山の上に痕跡を残したことに驚くばかり。
後から調べてまとめなければ、おそらく理解できないままでした。
まだ辿り着けなかった神社仏閣があるので、また吉野へ行こうと思っています。
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