見出し画像

もうそろそろ、父を認めようと思う。

最後に父と目を合わせたのはいつだろうか。

最後に父と会話を交わしたのはいつだろうか。


最初に言っておく、私は父と不仲である。

が、今までの人生で大きな喧嘩をしたわけではない。
虐待を受けていたとか、そんな物騒なことがあったわけでもない。
むしろ、私は生活に困ることなく、大切に育てられた。
特別に裕福というわけではないが、一般的な家庭だったと思う。


うちんちはというと

父はサラリーマン、母は専業主婦。私たち姉妹が小学生になるころにはパートで働いていた。
父は平日、私たちが起きるころには出勤していて、夜の8時頃に帰宅、家族より少し遅れて夕ご飯を食べていた。あまり会話をした記憶がないし、父がどんな職業についていたかすら知らない。
土日の休日も、正直、父と何かしたという思い出がない。たまに遠出をいたり、テニスクラブの送迎をしてもらったけかな。目に見える子育てはすべて母。でも、どこの家庭もそんなもんだと思っていた。

3人姉妹で私は次女。幼いころの私と言えば、とにかく『いい子』でいたかった。親や先生に叱られるなんて、自分の中で許されなかった。勉強もスポーツもそれなりにできる。お金の面でも迷惑をかけない。

でも、心のどこかで目立ちたいという気持ちはあった。

これは持論なのだが、やはり第一子とは、どこのご家庭でもかわいいものではないか。夫婦にとってすべてが初めてである。母のお腹に生命が宿ることも、出産という経験も、子供が成長する過程も、すべてが夫婦にとって初めてで新鮮なものだ。そんな中で生まれた第二子の私。やれやれとしている2年後には第三子の妹が誕生。やはり、より幼い妹に目が行きがちだし、長女は幼稚園入園に小学校の入学。あれ、私の存在は?
母は今だから言えるのだと思うが、『サヤカはいつの間にか成長していた。』と言う。(育児放棄したとか、そういう話ではない。)

だから、大人になった今でも、私を見てもらえるよう目立っていたいのである。何歳になっても、親が生きている限りは私は子だ。


10代のころの私から見た、父の姿

話は逸れてしまったが、圧倒的に10代の間は父と会話が不足していた。正直、父のことは嫌いではなかったが好きでもない。

ただ、いわゆる『亭主関白』までとはいかないが、それに近いものはあったと思う。(ただ、うちんちの生計の立てていたのは父であったし、母はその家庭の在り方に満足していたのかもしれないが。)
母はどんなに理不尽なお願いをされようとも『はいはい』で済ませていた。

私はどうしてもそれが気に食わなかった。当時の私には、夫婦の在り方なんて分かったもんでない。
父も母も同じ人間なのに、なぜ稼ぎの多い父の言うことをすべて聞かなければならないのか。高校生の時の進路のことでも、大学浪人するか決める時もそう、母に相談しても、『最終的なことは父の言う通りにしてね』と言われた。意味が分からない。私は普段のコミュニケーションを通して信頼しているのは母である。そんな母の意見を尊重したいのである。

ただ、私は聞き分けのいい子でいたいので、母の言う通りにする。が、父と日常的に会話をしたことがないため、いざこういう場面がやってくると、どう話かけていいか分からない。『ちょっと話があるんだけど』?『今、少し時間いい』?あれ、どうやって話しかけるんだっけ。というか、今まで話していないのに、今さら話通じるの?

やはり、突然結論を迫るようなことを相談したところで、自分の思ったような回答は返ってこない。『ほら!父は私のことを理解してくれないじゃん!』父への不満(若干嫌い)ポイントが貯まっていく。これが普段のコミュニケーション不足の結果である。

こういうことで、『父のこと、そんなに嫌いではない』から『嫌いとは言わないが、苦手』に変わっていった。やはり、私はいい子でいたいので、嫌いという拒絶まではしない。

『将来どんな人と結婚したい?』と聞かれたら、『亭主関白気質からほど遠い人。私と常に同等でいられる人』と真っ先に答えるようになった。


そんな父のことを考えたところで疲れるだけなので、同じ屋根の下にいるが、極力私の中から父の存在を消した。今思うと、なんて親不孝な娘なんだ。


いわゆる、『お役所』に勤めることになった娘

そんなこんなで、私が地元の役場で働くことになってしまった。
その地元と言えば、父が生まれ育った場所。やはり、私の父は昭和を生きた人間なので、わが子が役場で勤めることは喜ばしいことらしい。
地元の古くからの友人や、職場の同僚から『娘さん、どこに就職したの?』と聞かれたら『地元で公務員をする』と自慢げに発表できる。世の中、そんなもんらしい。

一応、採用が決まった時に『受かった』とだけメールをした。
そうしたら『サヤカは遅れて努力が実るタイプ』と返信が来た。
いや、今まで私の何を見てきたんだよと思ったが、やはり私はいい子でいたいし、少しは認めてもらうことができたのかなと思い、少し心が温かくなった。これがきっかけで、父との距離が縮まるのかもしれない。


冷戦状態が緩和された社会人1、2年目。

これまた父とちょっと揉めた。こればかりは家庭の事情になるので、詳しくこの場では書けないが、そのストレスに耐えられず、私はアパートを借りて一人暮らしを始めた。もちろん父にはそのことは伝えていない。母の口から聞いていたかもしれないが、いつの間にか娘は家を出て行ったのである。
出て行ったとは言え、アパートは実家から車で15分程の近場であるし、そもそも職場は実家のすぐそば。2週間に1度は必ず実家に顔を出していた。

その1年後には、娘は全く知らない男と同棲していた。我ながら、どこまでも自由な娘だと思う。ただ、『うちんちは自立したらすべて自己責任』という風習があるため、父は何も尋ねてこない。


正直、未だに父と会話をするタイミングが見つからない。
社会人になれば時効だと思ったが、案外そう簡単にはいかなかった。

すでに苦手という感情は一切ないため、話そうと思えば話せるのだが。
26歳の誕生日が近いというのに、これまでのコミュニケーションの機会が乏しすぎるため、まともに父とどう接してきていいか分からない。これじゃあ、10代のころの私と何も変わらないではないか。


父はかれこれ、あと3年で定年退職という年齢になっていた。
健康に過ごせる時間も日に日に減っている。やはり私はいい子でいたい、というか、血がつながった父と残りわずかの時間は、せめてこれまでのコミュニケーション不足を補ってみたいと思う。絶対に後悔する。いや、後悔するから仲良くするというもんでもないが。この文章を書きながら改めて思ったが、親の苦労も知らないで、なんて親不孝者な娘なんだ。


母親とは仲が良いのに、なぜか父とは会話ができない女性って一定数いると思う。親の愛は無償だよ。今年中には話かけてみようね。私も絶対実行するからさ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?