見出し画像

風の音に耳を澄ます

 雲仙岳というのは普賢岳、国見岳、妙見岳、野岳などからなる、島原半島中央部に位置する火山である。このうち妙見岳というところに行ってきたことを書こうとおもう。そういえばどうしてそこに行こうという話になったんだっけな、とおもって遡ってみたけどおよそひと月ほど前に会話の中に出てきて… というあたりしかわからなかった。気になる。まあいいんだけど。

 私はこの妙見岳という場所には行ったことがなかったんだけど、ずっと前に友人経由でこのあたりの資料をもらったことを思い出して、ごそごそ探してみたらちゃんと綴じてあった。もらったときにも目を通していたのだけれども、改めて読んでみると興味深い。でもなかなかひとりで行くような場所でもないし、機会を得てうれしいなとおもった。この資料をもらったとき、この辺にある一切経の滝という場所がスゴイという話も聞いていて(どうスゴイのかは忘れた)、そこは行基菩薩にゆかりがあるとかそういうことや空海も何か関係するという、そんな記憶もあった。興味をひかれつつもあれから4年程も経過してしまった。
 行きたいとおもった場所に興味を持ってくれるひとがいるっていいなあ。これはいわゆる小確幸(小さいけれど確かな幸福)といえる。

 雲仙地獄付近には温泉神社というのがあって、これは「うんぜんじんじゃ」と読む。古くは温泉をうんぜんと呼んで(読んで)いたというのはまた別のところで知っていて、昨年5月に雲仙地獄のついでに神社にも立ち寄っていた。といってもこのときは殉教地のほうに意識がいっていて、神社はあまり印象に残ってはいないのだけど。

新緑に埋もれる温泉神社

 もともとこの雲仙というのは島原半島において霊山であって、山岳信仰(修験道)ということで大いに栄えていたということだ。かつては比叡山や高野山とともに『天下の三山』とまで称されていたというからすごいではないか。修験道が盛んな時代、中国大陸(唐)と日本を行き来する船よりはじめに見える山がこの雲仙だったという。
 そして行基というのは東大寺の建立に尽力した有名な僧で、大宝元年(701年)に熊本の天草よりこの雲仙の噴煙を見てこの地にやってきて、祈祷を続けていると空中に白い大蛇が現れた。蛇は行基をみとめるとたちまち四面の美女となった。行基が何者か訊ねると、「九州の守り神である」とこたえたらしい。それから行基はこの守り神を祀る寺社を建立することとなり、満明寺と四面宮しめんぐうを造営したのだそうだ。この四面神と、普賢岳を中心とした4つの峰(国見岳、妙見岳、野岳)を、四方に顔(面)をもつことと関連づけ、それぞれの山麓4か所にも分社がされた。そしてその後も各地に分社が広がったとされていて、現在確認できるもので県内に25社を数える。ちなみに山麓の4か所とは千々石ちぢわ(一の宮)、吾妻あづま(二の宮)、諫早いさはや(三の宮)、有家ありえ(四の宮)となり、これら分社の名称ははじめ四面宮とされていたものが、時代が明治へとうつり神仏分離の関係において『温泉神社』のほか各地域の名称に変更され、いまに至っている。

クリスタルの金剛杵(バジュラ)

 それで、妙見岳。
 仁田峠のロープウェイを利用し妙見駅に行く。ところでこの登山道入り口に普賢神社拝殿があった。普賢神社というのは温泉神社の奥の院で創建は室町時代とある。もとあった普賢神社は平成3年(1990年)の普賢岳噴火により倒壊、5年後に仮拝殿としてこの登山口に建立されたのがこの拝殿だった。新しい普賢神社は噴火から13年後に普賢岳山頂近くに建立、ご神体の普賢菩薩像も新調されたそう。ご挨拶してロープウェイでひょいと上にあがり、普賢岳や眼下の景色を眺め、妙見神社にお詣りをしにいく。(ここでちょっとふしぎなめぐり合わせがあったりしたけどそれはまた別の話。)
 下りは歩いて、この日は風が強かったため山を吹き抜ける風の音が大きかったのだけれど、その音は木々と風によるものというよりも、波立つ海の水音のようで、目にする景色とのギャップがすごくふしぎだった。石のころがる山道を慎重におりて行った。すこし汗をかいた。

妙見岳に立つ

 じぶんの足腰で土地をふみしめ、空気を吸いこんだあとは温泉が待っていた。汗をながし身体をじゅうぶんにあたためて、海のそばから夕陽をながめて夕飯をとり、帰路についた。
 とてもいい一日だった。

この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

至福の温泉

サポートを頂戴しましたら、チョコレートか機材か旅の資金にさせていただきます。