憎らしくて愛らしい
『軍師二人』という司馬遼太郎氏の短編集を読んだ。戦国の時代の武将たちと、それをとりまくおんなたちの様子が、どこかのんびりと描かれている。肩が凝らずにすんなり読めた。
おんなというのはやかましく、せからしいものであることを再確認しつつ、しかし同時に、どうにも可愛げのある生きものなのかもしれないなあ、とか考えた。
河合隼雄氏の著作に、どこかの原住民に伝わる民話が紹介されていたのを思いだした。
日常におんながいるのをうるさがって、別々に暮らそうとおとこたちが言い出し、お互いの同意のもとそれを実行する。
おとこたちはしばらく自由な時間をたのしむんだけれど、ふとおんなの存在が恋しくなる。おんなたちに戻ってきてくれとたのむ。
戻ってきたら戻ってきたで、じゃまくさくなる。また別々に暮らそうと持ちかける。
これが何度か繰り返される。
・・・このお話が、最後どんなふうになるんだったか忘れてしまって、ちょっと探してみたけれどうまくいかなかった。
まあ、こんな具合でおとことおんなというのは時代や文化を問わず、おとこなりに、おんななりにそれぞれ存在し、そのうえでお互いに折り合いをつけつつ暮らしているのかもしれない。
フェミニスト方面の人たちが目を三角にしそうだけれど、誰かにとってとまり木的存在でいられる瞬間というのも、そうわるいものでもないんじゃないかな。
『軍師二人』の中の「女は遊べ物語」に、編笠七蔵というのが出てくる。七蔵は通称で、編笠というのは天正元(1573)年の小谷城の戦いでついたあだ名だそうだ。この人の名は伊東長久というらしい(小説内では伊藤)。
ちょっとだけ調べてみたけれど、物語に出てくる妻・小梅関係の情報は見つけられなかった。だから妻や妾のことはいまのところわからない。いつかそういうのを、娯楽的に調べる時間がとれればいいなとおもった。
*
今日、昼間に近所をぶらぶらと歩いていたら、「長久」という文字が目に入った。とっさに編笠七蔵が浮かんだ。(小説を読むまでこの人物を知らなかったくせに)
「長久」はビルの名前であった。
せっかくだから写真を撮っておこうとカメラをとりだし、記念撮影。
撮ったあとはカメラを手に持ったまま歩いた。続けて何枚か撮ったので、載せておこうとおもって記事を書いた。
*
*
今日の「つい」:買いものがあったので百貨店に寄ったら、バレンタインの催事がはじまっていました。どうせろくなものないんだろうな、とおもいつつわざわざ8階まであがって、・・・やっぱりろくなものはありませんでした(でもいちおう見ないと気がすまない)。
サポートを頂戴しましたら、チョコレートか機材か旅の資金にさせていただきます。