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旅と巡礼

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近所だったり、ちょっと遠くだったり。旅と巡礼とは切り離せないもののようです。
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#日本史がすき

(たぶん)変わりゆくサン・ジワン枯松神社

 数日前にちょっとだけ外海地区を訪問した。いつもお世話になっているTKサンにお付き合いいただいて、枯松神社と子捨川・仏崎を見に行った。  枯松神社というのは、外海の黒崎地区にある場所で、神社というけれど社格は持たない。かくれキリシタンの史跡の一つで、訪問ははじめてではない。  わりとどうでもいいことかもしれないけれど、枯松神社参詣のために車を停めるこの場所は、外海総合公園という公共の場である。車から降りて枯松にむかおうとしたところで、TKサンが、ここは県内で(たぶんそうい

Our Lady of the Immaculate Conception-善長谷教会-

 半月ほどまえに訪ねた場所のことを書いていなかった。この日はある用事のため、ある人(あかえさんとする)に付いてきてもらってそれを済ませたあと、時間が空いていた。  あかえさんは車の運転をしないし、ひとり住まいで、なにか買いものの用でもあれば行きますよ、などと言いながらぶらぶら車を走らせていた。時刻は午後15時を過ぎたところで、晴れた日だった。  行く先をおもいつかなければ、どこかでだらだらとお茶するのでもいいか、などと考えていたら、あかえさんが善長谷教会の名を出した。以前か

長崎甚左衛門純景の墓所と春徳寺周辺

 長崎甚左衛門の墓が時津町にある、そんな話題がKさんから出て、当地に行ったのはひと月前のことだった。写真を数枚撮っていたし、もとの領地である春徳寺にも足を運んだのに、記事にするのにずいぶん時間がかかった。 *  長崎甚左衛門純景はポルトガルとの貿易のために長崎の港を開いた人物であり、その領地に日本初となる教会を建てる許可を与えるなど、なかなか目立った行動をしているにもかかわらず、一般的にはあまり知られていないようなところがある。  墓所のある時津町では看板が立てられてもい

縁の下のサルモン神父

 いつか、とおもいつつずっと訪れることのなかった場所に、先日案内してもらって行ってきました。しょっちゅう行っている、外海の教会のすぐそばにあるんですけどね。 *  パリ外国宣教会のド・ロ神父は1868年に来日し、長崎・大浦や横浜で印刷などの事業と司牧を兼務した。  ところで、あらゆる媒体でド・ロ神父と呼ばれ、すっかりなじみとなっているこのフランス人司祭の名前はMarc Marie de ROTZで、マルク=マリー・ドゥ・ロッツと発音する。deはフランス革命以前に貴族だった

大東亜戦争の裏側で

 今日12月8日は、日本軍による真珠湾攻撃(ハワイ時間12月7日)がおこなわれた日ですね。  記念的に、最近知ったことなどを書いてみたいとおもいます。 戸田帯刀神父射殺事件  必要があって、横浜周辺とキリスト教(カトリック)のあれやこれを調べていたところ、戸田帯刀神父の事件にあたった。  戸田神父は、1898年3月23日、山梨県に生まれ、1923年11月にローマのウルバノ大学へ留学、1927年12月17日に司祭に叙階された人物である。  札幌使徒座代理の職にあった194

プロフィルの断片

 台風が過ぎたあとで、いつかみたいにミルクティーのじゃない、今日の海はところてん色をしていた。 *  このところ必要な文章いくつか書いて、それの英訳のため下準備的な作業をやっている、そのことを何度かここにも書いているけれど、相変わらずそういう作業が続いている。  今日は、その作業から少し離れて(プロジェクトとしてはひと括りではあるんだけれど)別の調べもの、書きものを進めた。  手元にある書籍などといった資料の他に、国立国会図書館のデジタルアーカイブを利用しながら、きょうの

放っておいてくれと言われそうなささやかな疑問

 前回の記事で外海のことをちょこっと書いたんだけど、昨日からは平戸の資料をあれこれ探して読んでいるところ。  それぞれの地域に共通する信仰形態に「かくれキリシタン」がある。  共通するとはいっても、成り立ちに違いがあって、それゆえ中身もけっこう違うものになっている。  私はどちらにも詳しくはないのだけれど、とくに平戸方面のかくれのことはよく知ろうとしてこなかった。  平戸島の北西部と、平戸島の北西にある生月島のエリアのこととなると、意識がなんとなく拒否をするし、そのあたり

あのささやかなデコレーション

 ちょっとした報告用の資料をつくるのに手をかしてほしい、というので外海地区を訪問してきた。今日はたいへんな晴天だった。  提出用として(スマートフォンで)ささっと写真を撮って聞きとりをしたあと、少しだけ自分用にも写真を撮ってきた。  ちょっと前に、明治にこのあたりでいろいろな活動をした、パリ外国宣教会のド・ロ神父の手がけた建築物のことをちょっと書いた。何度も訪ねている場所だけれど、今日はまた知らずにいたその特徴のいくつかを見つけて、気もちが少しおどった。  このところ、あ

実直で堅牢なカーブ

 大浦天主堂の境内には、天主堂の他に旧羅典神学校と旧長崎大司教館という建物がある。そこらへんの資料を読んでいると、いろんな文献に実にいろんなことが書いてあって退屈しない。と言ってもそれらが全部信頼できるソースからのものとは限らないが。  このふたつの建物の設計者はド・ロ神父で(旧大司教館の方は鉄川與助との共同設計)、ド・ロ神父といえば外海地区にも教会堂などを建てたことで知られている。  ド・ロ神父の設計物とおもってあらためて眺めてみると、どれも実にしっかりと、実直につくられ

キリシタン墓碑についてのちょっとした記録・その二

 この間の記事の、続きを書いていきます。  資料は『南島原市世界遺産地域調査報告書:日本キリシタン墓碑総覧-企画 南島原市教育委員会/編集 大石一久-』という、大型の総覧を用いて参考にさせてもらっています。 * ・宮の本キリシタン墓碑群(南島原市布津町) ここもその場所を見つけられず、畑に立ちマップの指す方向を空しく眺めて終った。資料には「宮の本キリシタン墓碑群」とあるが、南島原市の指定文化財一覧を見るとどうやら「布津町キリシタン墓碑群」のことだと思われる。ここには共同

キリシタン墓碑についてのちょっとした記録・その一(訂正あり)

 先週のこと。自分の仕事ではなかったのだけれど、頼まれた案件で南島原方面から島原半島をぐるっと北東に向かってまわってきました。あまり興味と知識のない分野だったのですが、せっかくだし記録のためにちょこっと調べて、残しておきたいとおもいます。  目的は何かというと、島原半島それも大部分が南島原市に分布する、キリシタン墓碑群の場所やルートの確認であります。この間の外海地方の墓地探索といい、墓地的な縁(?)が続いています。  はじめに断っておきますと、記事が長めです。そしてこれは墓

松浦家の家紋は三つ星だと知った

 仕事の用があって平戸市に行ってきた。平戸大橋より手前には田平教会があって、ここにも寄った。1年半ぶりくらいだった。  田平教会のあるエリアは、もとは世界文化遺産『長崎と天草地方潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産のひとつだったけれど、いろいろあって外れてしまった。そうはいっても、多くの人の興味を集める教会堂である。当初からの登録に向けた準備からの縁で、その後も仕事でも個人的にも8年ほどやりとりが続いている。  田平は外海の出津と関係がふかく、それというのはド・ロ神父のいく

プチプチだった

 仕事場での飲み会というのが好きじゃなくて、ほとんどぜんぶを断っている。下戸というのもあるけれど、ああいうのって純粋に消耗でしかない(個人的な意見です)。  ところが先日、取引先の社長と職員、うちのボスという顔ぶれのものに行くはめになった。どうにも断れない状況というのがごくたまにある。  仕方なく行ったけれど、やっぱり、すごくぐったりとくたびれてしまった。私はこういう場で、それが目上の人であってもひとことふたこと勧められたからといって、飲みたくなければ飲むことはしない。うち

西坂に行ったことと巡礼にまつわる疑問など

 西坂で処刑された日本二十六聖人、そしてその地を願望できるかつての外国人居留地に建つ大浦天主堂のことをこの間書いた。そしてそのうちに、とおもっていた西坂のその場所にさっそく行ってきた。  車を停めて、二十六聖人記念館前に公園として整地されている場所に立ってみたけれど、案の定目線を遮る建物が多すぎて、ここから大浦天主堂界隈はとうてい見渡せない。当時はこんなふうに高い建物はなかったろうから、目を凝らせばきっと見えたであろう。  今回は記念館やフィリッポ教会に入ることはしなかっ