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プロフィルの断片

 台風が過ぎたあとで、いつかみたいにミルクティーのじゃない、今日の海はところてん色をしていた。

*

 このところ必要な文章いくつか書いて、それの英訳のため下準備的な作業をやっている、そのことを何度かここにも書いているけれど、相変わらずそういう作業が続いている。
 今日は、その作業から少し離れて(プロジェクトとしてはひと括りではあるんだけれど)別の調べもの、書きものを進めた。
 手元にある書籍などといった資料の他に、国立国会図書館のデジタルアーカイブを利用しながら、きょうのところはとにかく手当たり次第にあれこれ開いていた。拾い読みみたいなことをひたすらやっていると、いろんなのが出てきておもしろい。

 おもしろがってばかりいないで、たくさんの素材のなかからエピソードや言葉を選びとって、読む人におもしろがってもらえる文章を組み立てるところを見失わないようにしなくては。
 とりかかったばかりだし、本分のためにとっておくべきエッセンスをここで滲ませるわけにはいかないから、おそらく使うことのない断片でちょっと何か書いてみたくなった。

 パリ外国宣教会の司祭で、Aimé Villionエメ・ヴィリヨンという人がいた。明治元年に来日したヴィリヨン神父が活動したのは、神戸、京都、山口、萩、奈良あたりだというから、長崎のキリスト教史にはあまり登場しない。だけれどもなんだか名前に聞き覚えがあるとおもったところ、ヴィリヨン神父の著書に『日本聖人鮮血遺書』があった。
 『日本聖人鮮血遺書』は1887年に出版されたキリシタン殉教史とのことだけれど、私は読んだことはない。だけれどもこの本に収められている信徒発見の場面の挿画は、いろんなところで引用されているので、この題名を目にしたことがなん度も何度もあ何度もあるというわけ。
 この挿画はヴィリヨン神父によるものなのかどうか、いちおう調べておこうとおもって検索したけれど、情報が出てこなかった。挿画には「慶応三年三月十七日長崎の聖殿ニ於不意ニ昔時の信者の子孫が顕われ教師に事情を語る図」と書かれている。
 つい挿画を描いた主を調べるのに時間を使ってしまったけれど、そうじゃなくて今日拾い読みしたものの中から興味をひかれたヴィリヨン神父のエピソードは高札のこと。
 1873年に禁教の高札がおろされ、ヴィリヨン神父がいた神戸の町に「切支丹遵法差支えなし」という高札が掲げられた。これを見たヴィリヨン神父は、欲しくてたまらなくなり、ある夜助手を連れて盗み出したという。この高札はあとからパリ外国宣教会に送られ、保管されているらしい。
 この神父は来日早々禁教政策のために大浦天主堂に監禁されたり、明治期のキリスト教迫害の様子を目の当たりにしたというから、「切支丹遵法差支えなし」と書かれた高札が掲げられたことにさまざまの想いに見舞われたのかもしれない。
 挿画に描かれた大浦天主堂には、信徒発見のマリア像と呼ばれる聖母子像、主祭壇奥にはキリスト磔刑図のステンドグラスがみられるけれど、現在と比べ開口部の位置や数、身廊と側廊の割合など相違点が目につく。創建当時はこんなつくりだったんだろうか、どうだろうか。

 と、なんだかいつものように文章が散らかったというか、道草的にでれっとしてきちゃったのでこのへんでやめておこう(ねむいし)。
 今日は、データベースで「大浦天主堂」と検索をかけた。そうするとものすごくたくさんのデータがヒットする。
 ヨーロッパの教会などと比べてしまうと、150年ちょっとというのは歴史が浅いところだろう。とはいえ、国宝であることだし、世界遺産にまでなってしまって、大浦天主堂というのは創建時から現在まで、あらゆる種類の人々の関心を集めたんだな(それも世界中の)、と今更ながらおもった。
 そういうものに関わることになったこの私というのは一体なんなのだろう。

 そんなことをぼんやりとおもいながら、さっさと寝ようとおもう。

*

今日の「非日常」:台風接近が予想されたきのう、職員たちが帰宅して誰もいない事務所で静かに仕事をし、なぜか開いていた鍼灸整骨院でのんびりと施術を受け、車の少ない道路をのびのびと運転して帰りました。町中がひっそりとしていたし、なんだか妙に心がなごみました。
台風の影響もほとんどなかったし、いうことはありません。

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