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Our Lady of the Immaculate Conception-善長谷教会-

 半月ほどまえに訪ねた場所のことを書いていなかった。この日はある用事のため、ある人(あかえさんとする)に付いてきてもらってそれを済ませたあと、時間が空いていた。
 あかえさんは車の運転をしないし、ひとり住まいで、なにか買いものの用でもあれば行きますよ、などと言いながらぶらぶら車を走らせていた。時刻は午後15時を過ぎたところで、晴れた日だった。

 行く先をおもいつかなければ、どこかでだらだらとお茶するのでもいいか、などと考えていたら、あかえさんが善長谷ぜんちょうだに教会の名を出した。以前から気になっていて、だけどまだ行ったことがなかった場所である。あかえさんが好きというその場所に向かって、市内中心部から南長崎方面へ走った。

【関連地図】善長谷教会

 長崎のキリシタン史などにときどき出てくるこの場所は、私によくある思い違いで山の中だとおもっていた。着いてみて、とても眺めのいい場所にあると知った。
 教会のうしろ(東側)は人家もない山手だけれど、高台につくられていて西側には海がひろがっている。

 車を停めてから、ルルドをみて聖堂に入った。以前は木造だったそうだけれども、昭和27年に建て替えられているらしい。
 教会の正面にあるタブノキに小さな鐘がくくりつけてある。この鐘を鳴らしてミサなどの時刻を知らせていたのだとおもう。外海そとめのある教会にもそっくりな鐘がある。

 この地区は外海地区からの移住者でつくられた集落らしい。外海やこの深堀の地には佐賀藩の飛び地が存在しており、そのころの長崎では大村純忠(大村藩)と深堀氏(佐賀藩)が敵対してごちゃごちゃやっていたという。キリシタン禁制以降には佐賀藩領では取締りが比較的緩やかだったというのが、彼らの住みついた理由といわれる。

 以前の記事で触れた長崎開港の直前には、福田が貿易港として開かれており、深堀は福田から近いことから宣教師らが立ち寄った時期もあったというが、長崎開港後は島原・天草への海路に茂木もぎの港が使われるようになり、それに加えて前述のとおり領主の深堀氏は大村純忠と敵対していたことから、宣教師たちはこの地を遠ざけてもいたようである。次第に深堀への宣教師訪問は減ったようだ。

 長崎開港から間もない1572年、深堀氏は長崎を襲撃した。海上からの夜半攻撃で、攻め入った軍勢は長崎甚左衛門純景の城下町に放火した。春徳寺跡に建てられたトードス・オス・サントス教会はこれにより焼失した。

 このあたりの歴史についてもよく調べていつかまとめて書いてみたい。

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善長谷教会ルルド

 あかえさんはうちの母と同年配で、大浦にも縁の深い信徒である。知識も深く、話をしていておもしろい。からっとしていて明るくて、ずっと独身だからなのかどこか少女みたいな空気をもっている。
 そして何か、品性みたいなものを感じる。いつもお世話になっている外海の信徒の方々にも同じような印象を感じていて、それはたとえば身なりとか言葉づかいとかに関わりなくそうおもう。あかえさんと外海の方々でも親子ほどの年代の違いがあって、その品性はもしかしたらカトリックの教育のなかにたねがあるのかもしれない、などとおもう。

 善長谷教会をあとにしてすぐ、山道にヤブツバキの木が生えていた。濃い緑の葉っぱの間に真紅の花が咲いている。行き交う車がほとんどないのをいいことに、車を停めてふたりで枝をとったりした。

 ここはそのうちにまた、訪ねてみたい。

 ▽少し前に書いたルルドの記事。

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