ルルドに関する本を読んだ
帚木蓬生というひとの書いた本、『信仰と医学 聖地ルルドをめぐる省察』を読んだ。彼の著作についてはKさんからおすすめをされていたものの、まだ他の小説群を読む前に、たまたま書店で見つけたこの本から読んだ。
著者は精神科医でもあって(現在その職からは退いている)、ルルドについては訪問し現地を見たうえで、その歴史を調べて概要を書きだし、さらに医学の観点から意見や考えを述べた構成になっている。
聖母出現の当事者、Bernadette Soubirousというと、これも以前Kさんが、パリ外国宣教会の日本使徒座代理区フォルカード司教との接触があったというのを教えてくれたことがあったのを思いだしつつ、とりあえずこの本から読んだ。
ベルナデッタが出合った第1回目の聖母出現は1858年2月11日、その後同じ年の7月16日までに18回を数えた。ベルナデッタと聖母出現をめぐり様々な動きがあるなかで、ルルドの洞窟は次第に巡礼者が多数訪れるようになり、その数は増加するばかり、今日に至るまで絶えず続いているのは世界的に知られたことである。
『信仰と医学 聖地ルルドをめぐる省察』では、時間の流れとともに詳しいエピソードが綴られていて、よく調べてあるなあと興味深く読んだ。
ところで、この本を読み終えてから他にもベルナデッタについて書かれたものを読んだりしてみたところ、山梨県出身の志村辰弥神父の本、『ルルドの出来事』では聖母出現は19回、と書かれているのを見つけた。そこでは、3月3日の出現を数えていない資料もあり、教会の発表も18回である、と書かれていた。
へえ、そうなのか、とおもい帚木蓬生氏の本を追ってみると、3月3日の出現についてはだいたい同じ内容のエピソードとともに、出現の記述があった。しかし、聖母出現の合計は18回と書いてある。
どうにもよくわからないので、それぞれ第1回目から並べて確認しないと気が済まない。
そういうわけでそれをやった結果、出現のあり、なしの鍵となるのは2月26日だった。
ちなみに、帚木蓬生氏はルネ・ロランタンという司祭が聖母出現百周年事業のために書いた実録をもとにしており、志村辰弥神父はマトン神父の著作を参考にしている。ので、それぞれの本の聖母出現の部分も読んだ。
そうすると出現日に起こった出来事にも多少違いがあって混乱した。
私が読んだルネ・ロランタン神父の本『ベルナデッタ』は邦訳書だけれども、記念事業誌は何冊にも及ぶ大作だったらしいので、帚木蓬生氏は原書を参考にしたのかもしれない。
各日のエピソードの細かい記述は除いて、いくつかの相違点を以下に書いた。読みづらいとおもうけれど、自分用メモのようなものなのでご興味があれば読んでみてください。
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帚木蓬生氏とルネ・ロランタン神父
2月24日(8回目)
”出現”が「償いを!」と3回唱えた(ルネ・ロランタン)
ベルナデッタ(著書の記載はベルナデット)は「罪びとたちのために贖罪を、罪人たちのために祈りなさい」と告げられた(帚木蓬生)
2月25日(9回目)
ベルナデッタが「ペニテンソ(償いを)」と3回繰り返した(帚木蓬生)
地面に口づけをする、地面の泥土を掘り凹みに溜まった泥水を口に入れ、野草を食べる
2月26日(出現なし)
2月27日(10回目)
ルルド上級学校のクララン校長がご出現を見に洞窟を訪ねたエピソードのみ
3月2日(13回目)
「神父たちに、ここで聖体行列をするように言いに行きなさい」と言われ、ベルナデッタはペイラマル神父を訪ねる(礼拝堂を建てるようにとも要求された)
※ペイラマル神父はベルナデッタと顔を合わせるのはこれが初めてだったとの記述
3月3日(14回目)
朝の洞窟ではベルナデッタと周囲の反応の様子のみの記述
午後にいとこ伯父のサジュと伯母と共にもう一度洞窟に行き、着くと聖母は光の中で微笑みながら待っていた
外出から戻ったペイラマル神父はベルナデッタの訪問を受けた
3月25日(16回目)
「アケロ(あれ)」に名前を訊ね、「わたくしは、イマキュレ・コンセプシオン(インマクラダ・カウンセプシウ)です」と告げられた
(正統なフランス語の読み書きができず、教義も知らなかったベルナデッタには理解できなかったが、「無原罪の聖母マリア」を意味する言葉だった)
4月4日
「復活祭の日曜」
7月16日(18回目:最後の出現)
聖母マリア様が呼んでいて、彼女をマサビエルに向かわせた。これまでで最も美しい姿
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志村辰弥神父とマトン神父
2月24日(8回目)
ベルナデッタが「償を!」と3回唱えた
2月25日(9回目)
土を掘り湧いた水を飲み、野草を食べる
2月26日(10回目)
泉の水を飲み、顔を洗い、「罪人のために祈りなさい」と言われ、地面に口づけをし、少し草を食べた
2月27日(11回目)
ベルナデッタがペイラマル神父と初めて会い、会話をした様子が記述されている
3月3日(15回目)
朝は出現がなく、午後出現。朝に出現しなかった理由として「貴婦人」が「猥りがましいふるまいをして洞窟を汚した者があったから」と言った
その後ペイラマル神父を訪ねた
3月25日(17回目)
「貴婦人」に名前を訊ね、「インマクレ・コンセプシウ」と告げられた
4月5日
「四月五日はイエズス・キリストのご復活を記念する大祝日だった」と書かれているが、1858年4月5日は月曜日なので帚木蓬生氏・ロランタン神父の記述が正しい
7月16日(19回目:最後の出現)
午後4時ルルドの聖堂で聖体訪問の際に「洞窟にくるように」との声を聞いた、「聖母マリア様のお姿のうるわしかったことといったら、今までに見たことがないほどだった」
教会が認めた各日付のソースは見つけられなかったので、志村神父の書いているように3月3日を数えなかったのか、それとも2月26日なのかはわからない。
そして帚木蓬生氏が参考にしたルネ・ロランタン神父の本も、日付と回数を並べて記述していない部分があり、実際のところはよく確認できなかった。
細かい違いのどれが本当かなど、それ自体が特に大事なことではないかもしれないけれど、せっかく調べたので書いてみた。
マトン神父の 『ルルドの姫君』 は1927年の出版、志村神父の『ルルドの出来事』の出版は1958年。
フォルカード司教とベルナデッタ
フォルカード司教(Théodore Augustin FORCADE)は1864年に琉球と日本の教皇代理に任命され、長崎港に入ったものの上陸はかなわなかった。1852年まで香港に滞在したのちフランスに戻り、パリ外国宣教会を退会した。
1853年以降はグアドループ(Guadeloupe)司教、ヌヴェール司教(1861年)、エクス(Aix-en-Provence)大司教(1873年)などを務めた。
ベルナデッタとは、1863年にルルドの養育院で初めて会い、聖母の出現についていくつか質問をした。ベルナデッタの返事に感心したフォルカード司教は、ヌヴェール修道女会(Sœurs de la charité de Nevers)への入会を勧め、よく考えておくようにとベルナデッタに告げた。
1866年に養育院を去りヌヴェールで修練期を過ごすベルナデッタが、持病により重篤な状態に陥ったとき、フォルカード司教は誓願を立てる許可を与えた。ベルナデッタは持ち直した。二度目の誓願式は1867年におこなわれた。
ベルナデッタとフォルカード司教のかかわりについて、私が見つけたエピソードはだいたいこのくらい。パリ外国宣教会のデータベース(Irfa)には載っていなかった。フォルカード司教がパリ外国宣教会を退会したことが関係しているのかもしれない。
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ベルナデッタは、ご出現の際に「(ベルナデッタを)この世では幸福を約束しないけれど、あの世では幸福であると約束する」と告げられている。
この世では、というそのお告げどおりというか、多くの人に病の治癒などの奇跡が起こったのに、ベルナデッタ自身にはそれは起こらなかった。彼女は喘息の他いくつかの持病をもっており、それをこじらせて35歳で亡くなった。
冒頭の『信仰と医学 聖地ルルドをめぐる省察』の後半では、聖母出現後のルルドにおいて、医学研究所や国際医学評議会などが組織され、病院や宿泊といった巡礼者のための施設の成り立っていく経緯、治癒の症例や奇跡の治癒に関して綴られており、その「奇跡」について私自身がおもったことを書こうかな、とおもったんだけれど長くなりすぎた。
もう少し時間をおいて、頭のなかが整理できたら書くかもしれない。
聖母がベルナデッタに告げた「約束」は、果たされたのだろうか。
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五島列島の井持浦教会にあるルルドの洞窟は、1899年にペルー神父(Albert Charles Arsene PÉLU)によってつくられた、日本で最初の模型だそう。
ここのルルドには、祈る姿をしたベルナデッタの像がおかれていない(たぶん)のが何か、好ましい気がする。
ルルドの聖母の記念日は2月11日、日本の建国記念日である。
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