見出し画像

長崎甚左衛門純景の墓所と春徳寺周辺

 長崎甚左衛門の墓が時津町にある、そんな話題がKさんから出て、当地に行ったのはひと月前のことだった。写真を数枚撮っていたし、もとの領地である春徳寺にも足を運んだのに、記事にするのにずいぶん時間がかかった。

*

【関連地図】16世紀ごろのポルトガル貿易港(黒丸のあたりが時津町)

 長崎甚左衛門純景はポルトガルとの貿易のために長崎の港を開いた人物であり、その領地に日本初となる教会を建てる許可を与えるなど、なかなか目立った行動をしているにもかかわらず、一般的にはあまり知られていないようなところがある。
 墓所のある時津町では看板が立てられてもいるものの、人物として注目を集めるでもなく、看板などはもはや風景の一部となっている。

 ちょっと気の毒かもしれない。

 ちなみに、墓所のあるとなり町の法妙寺には位牌が祭られており、さらにそこからずっと南に位置する戸町には長崎家の墓地があるなど、所領地の他に縁地が点在しているあたり謎といえる。

*

 長崎甚左衛門純景は、初めて長崎氏を名乗った小太郎重綱から14代めにあたる。長崎は大村49か村のひとつで、長崎氏も代々大村氏に属しており、純景の領地は900石ばかりであった。

 1562年大村純忠は領地横瀬浦をポルトガル貿易港のため開港し、その翌年に純忠は重臣25名とともに洗礼をうけた。純景もこのとき洗礼をうけたとする説と、あるいは1565年に開港された福田での受洗とする説がある。いずれにしても長崎ではじめてキリスト教の伝道が行われた1567年にはすでにキリシタンであったとされる。洗礼名はベルナルド。
 横瀬浦では布教活動も盛んにおこなわれていたが、当時の領主大村純忠は、対立する父の庶子で弟にあたる後藤貴明にたびたび攻められていた。
 1563年の戦では横瀬浦が焼き討ちに遭ったものの、純忠は有馬晴純の援助のもとこれを平定し、後藤勢は敗退した。その後、1565年に福田に港が開かれたのは先に書いたとおり。

 福田はいい港とはいえず、長崎の港を調査し良とされ、純忠は娘婿でもあった純景に長崎開港を命じた。ポルトガル船入港のための港町として長崎が開かれた1570年、長崎は純景の支配から離れた。

 1567年に長崎で伝道をはじめたのは、ポルトガルのもと商人でイエズス会士として活動をしていたルイス・デ・アルメイダである。2年間ほど布教活動をおこない、そのあとをガスパル・ヴィレラが継いで長崎の廃寺を教会に改造し、トードス・オス・サントス(諸聖人の教会)と名付けた。

 単に長崎、と書いているから混乱するが、ここでいう長崎は、いま諏訪神社の境内に含まれる森崎権現の祠をかつての岬の先端とし、そこから館町へ延びる高台の宅地あたりを指す。長崎氏の居館は今の桜馬場中学校のところで、片淵、中川、夫婦川あたりが城下町だったそう。岬の高台に教会を建てるのは、ヨーロッパ式の都市計画によっていたという。

 1570年に純忠が開港し、1580年に教会の知行地として委ねた、もと純景の領地大村町、島原町、平戸町、横瀬裏町、外浦町、文知(分知)町、は先に書いたとおり純景の支配から離れてしまっており、このあと増えた18町は甚左衛門の支配地のままだったが、公領と純景の支配地が町続きとなっていることが治安などに不便があるとして、1605年に大村領長崎を公領とし、公領浦上を大村領とする替地が行われた結果、純景は支配地を失った。

 晩年の純景は、純忠の子大村喜前から時津村700石を知行地として与えようとの申し出をことわり、筑後に去って柳河藩の田中吉政に仕えた。これは、吉政がキリシタンの保護者として知られていたからだという。純景は2300石を与えられた。
 吉政は1609年に没し、子の忠正が継いだが忠正は子がないまま1620年に没してしまったため田中家は断絶、純景は大村に帰り、純忠の孫大村純頼に横瀬浦100石を与えられ、1621年に死去した。
 横瀬浦には「甚左衛門屋敷」という屋敷跡がのこっているという。

 石塔には法号が刻まれているが、だからといってキリシタン信仰をすてていたということではないともいわれている。
 しかし冒頭のとおりここから遠くない法妙寺に位牌があることや、筑後柳河に去ったことなど、この人物には不明なことが多い。

 良港だったという理由で、支配地の一部をイエズス会に譲るはめになり、さらにその他の領地までいっさいを公領にされてしまった純景の心境はどのようなものだったろうか。
 純忠が藩主であり義父だったこともあって文句のひとつもいえなかったかもしれない。
 あるいは、この時代の人々の忠誠心は現代に生きる私などの想像の及ばない種類のものだったろうし、信仰のこともあってよろこんで差し出しただろうか。(とはいってもねえ)

*

 ところで、長崎をイエズス会の知行地とするさいに与えられたのは支配権、司法、裁判権などを含むものであったという。このうち司法、裁判権は教会法と相容れないために、イエズス会側は役人(カピタン)を雇うなどの対応をしたらしい。
 このへんの詳しいことについてはきちんと調べて改めて書いてみたい。

*

 ひとの心などというものはわからない。
 長崎甚左衛門純景のこうしたふるまいや、残された墓や資料からそんなことをおもった。
 信仰というものについても、相手が目の前にいたとしても外側にみえる景色からそんなところまでは到底わかるものではない。


この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

日本史がすき

サポートを頂戴しましたら、チョコレートか機材か旅の資金にさせていただきます。