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縁の下のサルモン神父

 いつか、とおもいつつずっと訪れることのなかった場所に、先日案内してもらって行ってきました。しょっちゅう行っている、外海そとめの教会のすぐそばにあるんですけどね。

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 パリ外国宣教会のド・ロ神父は1868年に来日し、長崎・大浦や横浜で印刷などの事業と司牧を兼務した。
 ところで、あらゆる媒体でド・ロ神父と呼ばれ、すっかりなじみとなっているこのフランス人司祭の名前はMarc Marie de ROTZで、マルク=マリー・ドゥ・ロッツと発音する。deはフランス革命以前に貴族だった人の子孫の名字につくものらしく、前置詞であるのでロッツ神父が正しい呼び名である。他に「マルコ」との表記もみられるけれど、マルコはイタリア人名であってフランスでは用いられないもので、「マリク」と発音するのが正しいらしい。
 ということであるけれども、突然ロッツ神父と書くのもアレだし、すっかりド・ロ神父で通ってしまっているので、ド・ロ神父と書く。

 話を戻す。
 ド・ロ神父は1873年に横浜から長崎に戻り、大浦で印刷事業に力を入れ、さらに神学校の建設にも励んだ。(旧羅典神学校)
 外海地区に赴任したのは1879(明治12)年のことで、この地区の主任司祭として来たものの、当時聖堂としていたのは藁葺屋だった。1881年に出津教会の建設に着手し、翌年に竣工している。

 出津教会建設の次の年、ド・ロ神父の社会福祉活動のひとつである、救助院を創設した。いくつかの建物からなるこの「救助院」という施設群は、海難事故で男手をうしなった婦人たちが、自立をし生計を立てられるように考えられており、日記や算術などの学業を授ける他に製粉、紡織、裁縫、パンや素麺、マカロニづくりや搾油などといった技術が教えられた。また、孤児や捨て子の面倒をみる「授産場」などがつくられた。

 この施設群は現在、旧出津救助院として公開されている。救助院時代の聖ヨゼフ会から聖婢姉妹会を経て、お告げのマリア修道会の所有となっている。
 教会のすぐ下にあるんだけど、何年も機会を逃しつづけ、やっとの訪問となった。教会でお世話になっているTKさんに同行してもらい、シスターに挨拶して400円払う(観覧料)。ちょうど他に来観者もなく、シスターに中を案内してもらった。

授産場の窓ガラス

 授産場の1階部分は、素麺やパンなどを作る製粉工場として、また食料品などの保管に使われていた様子。地下に貯蔵庫があり、梁からは素麺を干す装置がぶら下がっている。建物の一角には炊事場も設けられていて、食品を加工するための伊万里焼の大きな鉢や、貯蔵のための甕がある。ド・ロ神父が考案したという、芋のスライサーや素麺を伸ばす道具類の展示もしてあった。(内部の撮影はできません)
 2階は板敷きになっており、礼拝室としても、作業室や寝起きの場所としても使われていたそう。窓の下に設けられた空間に、布団をしまい込んでいたと教えてもらった。
 古いオルガン(harmoniumハルモニウム)が置かれてあり、シスターが演奏して音を聴かせてくれた。

 そのオルガンは1889、90年あたりにド・ロ神父が購入し取り寄せたフランス・デュモン社のもので、2022年に修復がおこなわれたと聞いた。
 部屋の西側に聖母マリア、聖ヴィンセンシオ、聖ヨゼフのご像がおかれている。これらもド・ロ神父によってフランスから持ち込まれたもの、らしい。
 聖母マリアの隣には、大きな柱時計がある。重錘動力式柱時計というその時計は、ド・ロ神父の母の持ち物だったらしい。機械部分のみをフランスから持ち込み、外側を覆う木製の箱は日本であつらえたということである。
 15分ごとに音が鳴る仕掛けになっていて、授産場で仕事をする女性たちの目安として、役立てていたよう。

 ド・ロ神父は、これらの施設、事業に私財を多く投じている。道路建設などや医療活動など、驚くほどさまざまな社会福祉事業をなした人である。スゴイ人なんである。
 そんなド・ロ神父の功績をたたえる記述はよく見かけるが、先日パリ外国宣教会のデータベースで、のちにこの外海地区に赴任してくるド・ロ神父仲良しのサルモン神父(Marie-Amédée SALMON)のページを見ていたところこんなふうに書いてあった。

(ド・ロ神父は)荷車、家屋建築、道路、石版印刷、印刷、薬局などの公共事業を担当し、霊的な伝道と会計事務はサルモン師に任されたが、これは容易な仕事ではなかった。ドゥ・ロッツ師は生涯を通じて、財政については支出の面しか知らなかったため、同僚は災難を避けるために収入に常に目を光らせていなければならなかった。

irfa.paris missionnaire salmon-amedee
サルモン神父

 社会福祉事業にばりばりと精を出すド・ロ神父の陰で、サルモン神父はひっそりと、苦労をしながらしっかりとそれを支えていたんだな、と、表に出ない尽力をおもってじいーんとしたエピソードだった。

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 ここからは写真を続けて載せます。飽きずに見てもらえたらうれしいです。

出津教会の窓ガラス
ガラスは重ねて嵌め込まれている
授産場入口扉の「スカート」
左手が授産場、奥の建物は(もと)水車小屋
水車小屋の鬼瓦
薬局
薬局の鬼瓦
ド・ロ塀
接合剤に赤土が使われている
マカロニ工場
向って左手が授産場、右手が水車小屋
夕暮れの授産場
マカロニ工場の小窓
マカロニ工場のガラス戸
碾臼(たぶん)
授産場2階部分
薬局の鬼瓦
ベンガラで赤く塗られている

 先日、大野教会保存修理工事関係の資料をみていたら、鬼瓦のことを「鬼」とだけ呼ぶらしく、文章の中で何度も「鬼」と出てくるのが、なんだか妙におかしかった。

 すぐそばには旧鰯網工場を改装した、「ド・ロ神父記念館」があります。こちらにも行って、いくつか資料を貸してもらうなどしました。
 読んでまた何か書けたらいいな、とおもっています(いつになるか)。

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今日の「失敗」:洗濯洗剤の詰め替えを買いました。今朝、容器に詰めるつもりで買ったものを取り出してみたら柔軟剤だったのでびっくり。別の洗濯洗剤があってよかった(それにしても間抜けである)。

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