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桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』2004

桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』2004
ネタバレあり

『砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない』は、私にとって特別な部類の作品である。
主人公である山田なぎさの価値観や、この作品が提議する社会問題の数々は私にとって非常に興味深いものであり、単純に作品として秀逸ながら、読み返す度に、“私も同じことを思っていた”というような感覚があり、ふたりを通じてあの頃の自分が救われるような感覚になる。

この作品が生み出された2004年は、児童虐待防止法の改正や、子どもの貧困対策のために子ども・子育て支援新制度を導入された年であった。
そんな年に生み出されたこの本は物語を通じて終始“児童の問題“が描かれており、2004年に本書が発行されたことは、社会的にも意味があり、当時この作品に出会った読者にも強い影響を与えたと考える。

主人公である山田なぎさは、生活保護世帯で母子世帯、兄はひきこもりで、いわゆる“貧困家庭“で育つ少女であり、兄のお世話をするヤングケアラーでもある。
一方海野藻屑は、美貌やお金を持ちながらも父からの暴力に晒されながら生きる少女で、“生まれた後の事故“により左耳が聞こえない、片足が上手く動かせないなどの障害を持つ。

出会った二人は全く違う環境に居ながらも、自分の境遇や人生に対して絶望を抱くという点で一致している。藻屑は嘘つきで、金持ちで、余裕がある、そんな風に軽く藻屑のことをあしらっていた山田なぎさも藻屑の絶望を知ることで、藻屑のことを守る対象として見る。

私は、ふたりの絶望に対する向き合い方の対比が好きで。
なぎさは、自身の貧しい環境から、生きるために必要な「お金」に価値を見出し、「お金」という「実弾」を手に入れる為に高校へ行かずに自衛隊に入り、兄を自らが養っていく将来に希望を持つ。
藻屑は、よく「嘘」をつく。自分の事を人魚という。イリュージョンマジックを好み、自らのあざも、海で汚染されてしまったと、嘘をつく。

ふたりとも方法は違うけれど、自らの状況やそんな状況が作り上げた自分を、自分なりに守っているのだと思う。
なぎさは、兄のことが好きである。ひきこもりで、家庭のお金を使い果たしてしまう兄の事を、「現代の貴族」と呼び、慕う。興味があることのみを追って生きる、貴族。そんな兄を否定されることを恐れるなぎさは、自分が実弾を持ち、兄を守れる立場になることで、自分の中の兄が壊れないように、なぎさの世界からいなくなってしまわないように、立ち回ろうとしたのだと思う。自分の力で生きていける、自分の世界を守れる。そんな動機が、中学二年生のなぎさという自己を保たせていたのだろうと私は考える。

藻屑は、父親と自分との間に「愛情」があると信じている。「好きって絶望だよね」は、それが分かる台詞だと思う。あざを隠し、障害があることも隠す。父親のことも庇う。そこに「愛情」があると信じていたから。けれど、そんな愛情に晒され、傷つけられることは藻屑にとって悲しいことだったのではないかなと思う。「こんな人生は全部、嘘だって。嘘だから、平気だって。」こんな現実を嘘にかえ、自身が嘘という「砂糖菓子の弾丸」を撃ち続けることで、藻屑はこんな絶望から逃避し、自分を守っていたのではないか。

家庭、学校、そんなどうしようもない環境を子ども自身が、自身のみで選択することはなかなか難しい。生き延びていくために、どうにか自分の中で折り合いをつけて過ごした経験は誰にでもあった経験なのではないか。
なぎさと藻屑で異なる点は、なぎさは将来を見据えて自分の事を守っていたのに対して、藻屑は今の自分を守ることで精一杯だったところであると感じる。
自分で自分をなんとか守ろうとしたり、それでも守ることができなかったり。そんな子どもの精一杯の弾丸で、すぐに根本的になにかを変えられたらいいのに。

藻屑だけでなく、なぎさもサバイバーであったように思う。
そんなふたりの生きる姿に、何度も胸を撃たれました。

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