2019年、夏。社会人2年目になって、ようやく顧客を任されるようになった。前任からの引継ぎが終わっておらず、先輩との同行は相変わらず多い。夏になると、狭い商談ブースに図体のデカい先輩と並んで座るのは正直暑苦しい。そして氷入りの麦茶を出してくれるお客様は神様だ。
 先輩から引き継がれる顧客の中に、たまたま僕の故郷に所在する会社があった。大学を卒業してからすぐに上京した僕は、このお客さんへの訪問を理由に帰省することにした。
 社会人になってから初めての出張は僕ひとりに任せられた。前任も元々あまり訪問できていなかったらしい。行きの新幹線から自由だと思うと不覚にもラッキーと感じてしまった。きっと全国の若手社員も同じようなことを感じるであろう。

 僕の初出張は大きな問題なく、無事に遂行された。なんせ初回訪問なのだから簡単な挨拶と会社紹介をして、あとは世間話をしたくらいであって、問題が発生する余地などない。大した成果も無いけど僕はプチ達成感に浸りながら、真っ黒に焼けた守衛さんに軽く会釈をしてお客さんを後にした。
 最寄り駅へ向かう途中、曲がり角が三つだけあった。二つ目の角にさしかかった時、一匹の猫が道路脇のブロックからひょこっと顔を出した。丸くて大きい満月色の目と目が合った。この猫、僕が客先へ向かう時もここにいた。その時はブロックの上にちょこんとお座りしていて、陽射しを浴びて瞳孔が閉じた鋭い眼で僕を客先へ見送ってくれたのだ。今は日陰になったので瞳孔が開き、優しいまなざしで僕に「おかえりなさい」とささやいているようだった。「ただいま」と僕は心の中で応えてみた。
 その言葉が聞こえているかのように、猫は僕だから目を離さなかった。しばらくふたりで見つめ合ってから、猫はゆっくりとブロックをよけてこちらへ歩み寄ってきた。足元で止まるとじっと僕を見上げてきた。満月の目の奥に何か熱くて冷たい、冷たくて熱い何かを感じたような気がした。
「懐かしいな…」
ふと、そんな気持ちになっていた自分にはっとした。
 猫は手招きをするような視線を残しながら向こうへ歩き出した。僕は頭に“招き猫”の由来を思い浮かべながら、猫に“招かれて”あとをついていった。
 夏の黄昏時、猫の身体は時折夕日に照らされて、真っ黒な体毛が金色に艶めいた。夕日を正面にしているからだろうか、その毛並みの艶めきなのか、眩しさで目が眩む。瞬間、滑らかな幾本の線が柔らかくきらめき揺れたように見えた。胸の左奥あたりに一瞬だけ何かが触れて消えた。

 猫が招いてくれる場所はどこも学生時代に行ったことのある場所だった。住宅街のスーパー、大通りに面したドラッグストア、道の角にある焼肉チェーン店、そして静かな川辺の階段まで来たところで彼は腰を下ろした。さっきまで激しく燃えていた夕日は、あと6秒もすれば落ちてしまいそうな線香花火の火種のような、穏やかな暖かみを帯びていた。水に浸された火薬の匂いが漂ってきそうだ。
「今年もまた花火なんてせずに夏が終わるんだろうなあ」
社会人になってから、毎年恒例の花火をしない夏は2回目だった。大人になったんだなあという思いと、物寂しい感情を夕暮れ時の生ぬるい風が表してくれているようだった。
「毎年、誰と花火をしていたんだっけな」

 隣に座っていた彼が、僕に頬を擦り付けながらごろんと寝転がった。
「あ、君、女の子だったんだね」
てっきり雄だと思い込んでいた。彼女の頭をさっきよりも少しだけ優しく撫でてあげた。艶のある毛並みがわずかな夕日でさっきよりも艶めかしく見えた。なめらかで柔らかく、気持ちいい。ずっと触っていたい…。
 夏夜の水辺は時々涼しい風が通る。初めての単独出張で無意識にしていた緊張がほぐれていくのを感じる。目を閉じて、目の奥、顎、肩、背中、足、耳…少しずつ力が抜けていく。


 遠く、電車の音がかすかに聞こえる。ゆっくりと目をあける。知らない間に眠ってしまっていたようだ。
 ふと、手に身覚えのある感触。毛先まで柔らかくてなめらかな長い髪。僕にとっては芸術だった横顔の曲線美。揺れる度に愛おしかった睫毛。紛れもない“彼女”だ。彼女が僕の傍らで体を丸めて眠っている。
「夢…なのか?」
今、目の前で眠っている“彼女”は、いわゆる“元カノ”っていうやつだ。彼女は中学からの同級生で、高校生になった頃から付き合っていた。まさに青春時代を過ごした元恋人だ。
 彼女とは社会人になってすぐ別れてしまった。互いに進む方向が違いすぎたこと、社会人としての価値観の違いが露わになった。ふたりで何回も話し合って決めたことなのに、僕は今も彼女を忘れられないでいたのだ。
 だからだろうか、今こうして目の前に現れてくれた。

「覚えてる?」
いつの間にか彼女も目を覚ましていた。
「私たち毎年ここで花火してたよね。」
ああ、そうだ。僕が毎年花火をしていたのは“彼女”だった。
 街灯のない河川敷、暗闇の中で花火の激しい光が僕たちふたりの世界を造り上げてくれていた。それはほんの数十秒の出来事で、合間の暗闇を利用して口づけをしたりもした。一本消えればまた一本、繰り返した。火薬の煙に混じった夏の匂いが今も鼻の奥に残っているみたいだ。
「なんか、あっという間だった。7年ちょっと、本当に楽しかった。」
僕は、あの日別れ話をした時の言葉を口にしていた。
「そうだね、本当に楽しかったし、幸せだった。」
彼女の懐かしい香りを噛みしめながら、僕はまた幸せを感じていた。一度手放した、幸せを。
「今はもう幸せじゃないの?」
続けて彼女が僕に尋ねた。
「そんなことはないけど、あの頃の方が幸せだったかも。君は?」
別に知りたい訳ではないけど。
「…そうだね。」
そんな曖昧な答えしか返ってこなかった。
 向こうの山の麓で打ち上げ花火が上がっているのがぼんやりと見えた。隣にいる君にも見えているのだろうか。その時の僕にはもうわからなかった。

 しばらくして彼女は立ち上がり、軽くお尻を払ってから僕を見つめた。少し微笑んでから、じゃあねと言って歩き始めた。あ、ちょっと。思わず彼女を呼び止める。振り向かずに彼女は歩みを止めた。
「本当に君が大好きだった…」
喉の奥が詰まる。
「だ、だからその…7年間本当にありがとう。」
あの日、言えなかった言葉だった。
「私もだよ。本当にありがとう。」
あの日、聞けなかった言葉だった。

夏が来ると思い出す。
記憶はだんだんと霞んで、美化されていく。
そして今は、僕をふんわりとやわらかな空気で包み込んでくれる、栗色の瞳をした君で上書きされていく。

fin.

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