どうも、さげまんです

もし万が一、私以外の誰かさんがこの記事を読んでいるならば、あなたは相当不幸せなのかもしれない。だって、私はさげまん、不運な巡り合わせを起こす女なのですから。まあ、どうせ誰の目に止まることもないでしょうけど。

私はそこらへんにいる女子大生です。ただ、普通ではないと思います。よく、しっかりしているねと褒められますが、あんたらなんかにうちの何がわかるんだ、って思っています。逆に叱られる時も、うちの何がわかるんだ、って口答えしたくなります。ほっといてよって思っちゃわない?感じ悪くてごめんなさいね、

この世の中はどう考えても不条理すぎる。全然関係ないけど、学生のうちにメイクをガツンとやってると不適切だと言われるけど、社会人になるとすっぴんなんて無礼だって言われんの。アホかよ。本当は秩序や法律を完全に無視して、大暴れして、この世の不条理について声高に叫びたいです。でも、できません。だって、ねえ。

何でnoteを始めたのかと言うと、ある心理学の講義の時に泣いてしまったからです。その講義では見えづらい貧困問題についてのものでした。それは間違いなく昔から私が興味のある内容でした。高校の時、私はそれを「見えない貧困」"Invisible poverty" として調査をしていました。高校生なりに何ができるか考えて研究していました。なのに何で泣いたかって、私は気づいてはいけないことに気づいてしまったのです。

この授業の出席にもなるリアクションペーパーには教授が説明してくれたことに対して率直に思ったことを書くと言うものです。私はリアクションペーパーに最初で最後のSOSを発信しました。教授に何言ったって変わりゃしないのに。その、私が打ち込んだものを少し編集してここに貼り付けます。


パート1(学習支援室について)

居場所とは心を許せる何かがある場所だと思います。
たとえで挙げられている内向的な男の子はきっとこの学習支援室で少しづつ心を許していけているから、少しづつ他人に手を差し伸べることができるようになっているのだと思います。
私は小学校の頃、一度も学校が私の居場所だなんて思ってもいませんでした。その時の日々を思い出せば出すほど学校は生き地獄だと思います。
出る杭は打たれる。外れると潰される。
人はそれぞれで持っている個性もそれぞれ。なのに一律的な教育基準を満たせば大丈夫という考えがどこにでも存在しているのではないでしょうか。そのようなことがあるとたとえ才能や興味の蕾が開こうとしても開きませんよね。
なのでこの学習支援室のような存在は本当に大きいと思います。
ただ、このような教室が誰かにとっての居場所となり誰かにとっての成長できる場として存在していても、まだ居場所に困っている子はたくさんいます。それによって子どもたちは貧困を抱えたまま成長したてしまったら、結局居場所や自分を探すことによって若者の貧困にが新たに生まれてしまいます。

パート2(子ども食堂について)

私ははじめ子ども食堂の存在を知った時、ご飯も食べることのできないほどお金がなかったり、生活環境が悪かったりする子達のシェルターのようなものだと思っていました。はじめて子ども食堂のボランティアに参加した時に、多分私は慈悲心を持っていました。かわいそうな子たちがいて、私に何かできないかなと思っていました。でもそれは偽善だった気が思えば思うほどしてしまいます。
見えにくい貧困は食事にも潜んでいることがあるということに私は妙に納得しました。たとえば、私生活でもドラマでも、人に言いづらいことを打ち明ける時に食事の場を使うことがあります。食事をする環境って本当に大切な気がします。
だから生活に、それは物理的にご飯が食べれない子に限らず何か虚しさや悲しさを持っている子たちにぜひ活用してもらいたいと思います。

パート3(見えづらい貧困を持つ人によるスピーチについて)

私はここら辺から講義を聞くのが怖くなってしまいました。
すごく恥ずかしいのですが、まるで全部私に矛先が向かっていてぐさっと刺された感覚があったからです。少し逸れますが私の話をさせてください。
まず、私は高校生のころから見えない貧困についての勉強をはじめました。まずは私たちの身近な年齢層をターゲットに調査をしたりセミナーに通ったりしていました。そして毎日繁華街に繰り出しては実態を調べようとしていました。
なぜそのようなことをしはじめたか、それは東南アジアにボランティアに数回行った時に真に受けた貧困について、日本の貧困問題についてどうなのか知りたくなったからです。でもその動機はたぶん本当ではなくて、本心は自分のこの乏しさは何なのか、知りたかったのだと思います。私のいわばドッペルゲンガーを探したかったのだと思います。だからターゲットを絞るときも自分に近い子達を選んだのだと思います。多分。
はじめにあったクラブに日々繰り出しては無理をして皆に馴染もうとしている女の子のインタビューがありましたが、見えない貧困の典型的な例だと思います。居場所って何だろう、ここがなくなったら私はどうなるんだろうと本来の自分を押し殺して馴染もうとしているのでしょう。ただそこらへんから、恐れ始めて身震いしました。
私は貧困の定義を「溜め」のない状態だと定義づけています。お金の溜めや愛情の溜め、、、これらが欠落すると貧困状態になると考えています。ただ、全てのジャンルの溜めがある人なんていると思います。だからこそ一番怖いと感じているのが自分に溜めがないということに気づくことができていないという心に余裕がない人が、どのような道に進んでいくのかということです。
私はこの見えない貧困についての勉強をして行けばいくほど、自分の化けの皮が剥がれていくような気がしています。自分の興味を突き詰めれば突き詰めるほど、自分の哀れさ、いわば自分の溜めの無さに気づいていくのです。そしてそれの救いようのなさに途方にくれるのです。
スピーチの内容を聞いて、私は自分の言葉かのように悪い意味で刺さり、思考停止してしまいました。本当にSOSを出さなければ行けないのは勉強をしているこの私なのではないかって思うと滑稽で哀れで、何より怖くてたまりませんでした。
わかっているんです、自分には居場所は多分ないし、「信頼できる」友達もただその子しかいないから藁にすがるようにその子といます。相談できる大人もいません。何ならよくもこんな人間に育て上げたな、と親に対して牙を向けてしまうこともあります。趣味も特技もありません。だから自分を守る武器がありません。毎日ねれません。だから朝起きれません。眠気の伴う花粉症や偏頭痛のお薬も、もう切れてしまいました。
ただ、私は表に出ると明るい性格だねと言われます。それにお金はあるし、衣食住困ったことはない、恵まれた環境で育ってきています。失敗もあったけど私の人生を客観視すると何も困ることのない道を着々と歩いています。
だから私は貧困状態じゃない。そうずっと思っています。自分の歩いている道は平均台よりも不安定なのに。でも勉強して行けばいくほどこれは貧困状態と言えるのに認めるのが怖いのです。
評価は下がってもいいからこれは備忘録として、初めて自分の本当の気持ちを言葉に起こせた証として提出させてください。


私は多分、いわば研究対象です。

自分を実験台にしてこの社会問題にこれからも向き合っていきます。

でも

社会問題の研究に主観を組み入れることは、たとえ当事者だとしてもいいことなのかな。

よくないんじゃないかな。

わからないや。

心の内に全てを留めておくキャパシティーは存在しないので、このようにnoteにまとめてみようと思いました。

私の静かな叫びです。

負けないで、という言葉はあまり好まないのだけど、

自分に潜む貧困に負けずに勉強を続けて、自分の、誰かの、光を見つけられたら、

それと同時に私の全く別の大きな夢も追いかけられたら。。。


私のドッペルゲンガーはこの世にいるのかな。

そしたら、うちら一緒にこの不条理な世を潰します。


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