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気仙沼ダークツーリズム

 一ノ関駅から一時間半ほど、大船渡線で山道を抜けて神月駅を通り過ぎたあたりから風景が開けて、はじめて気仙沼駅にたどり着いたとき、BRTの停留所と駅舎を抜けてロータリーに出た。これといって変わったところのない駅前のようすに驚きとは言えないような驚きを少し感じる。目の前には小さなカジキマグロの模型と時計のついた「ようこそ気仙沼へ!」という文字が書かれた灯台の模造、その奥に七階建てくらいの小さなホテル、脇にあるもっとずっと小さな観光案内所には「レンタルサイクル貸出中」の文字とご当地キャラクターの顔はめパネルがある。空全体には薄い雲がかかっていて、その雲越しに柔らかい日差しをアスファルトに投げ出して明るいが、風はやや冷たかった。ただひとつの地方都市の変わらない風景がそこにあった。
 しかし駅前でそうした漠たる印象は少しずつ失われていく。気仙沼駅はやや奥まった場所にあった。そこから車で商店街をくぐり抜けて海辺のほうへ行くと突然、その景色に違和感を覚える。何かが違うのだ。密度だ。それは海沿いの道を進むほどにはっきりとしてくる。郊外の車線の多い道路を進む。何もないわけではない。いくつかの食事処や大きな建物がまばらに建っている。海沿いには真新しい大きなカフェが見える。港にはイカ漁のための大きな電球がカエルの卵みたいにいくつもついた大きな漁船がいくつも並んでいる。しかし徐々に砂まみれのむき出しの家の基礎や広い区画にたくさんの盛り土がされているのが目立つようになってくる。そこに肉を削がれた骨のような電柱や信号機ばかりが、空に向かっていくつも突き出している。ここにきてやっと、ああ、ここは流されたんだという実感が確かに押し寄せてくる。震災から8年がたった3月の事だった。(ためしにGoogleMapのストリートヴューを見てほしい。震災から十年が経とうという今でも状況に変わりはない。)

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 悲しみの記憶をたどる旅がある。「ダークツーリズム」と呼ばれる旅だ。一九九〇年代ごろからイギリスで唱えられ始めたものだ。アウシュヴィッツや9.11のグランド・ゼロ、ヒロシマなど、人類の悲しみの記憶が刻まれた場所を巡る旅だ。何のために悲しみの記憶を巡るのか。物見遊山では決してない。しかし、じゃあどうしてといざ問われるとうまく言葉にはできない。日本のダークツーリズムの第一人者とも言っていい井出明さんは『ダークツーリズム:悲しみの記憶を巡る旅』(幻冬舎新書)のなかで、いくつかダークツーリズムの意義を説明している。➀その悲しみの記憶を継承していくこと、②近代という時代の構造への眼差しが浮かび上がることなどがそれだ。たしかにそうだ、とは思うのだが、そうした意義づけだけでは回収されない何かがを胸のうちに沈んでいるのを感じる。それは一体何なんだろうか。
 私は気仙沼の地にに降り立った。そこには少なからずダークツーリズムをするのだという意識があった。2011年3月11日、私はまだ小学生だった。卒業式の直前で、その練習だけで早く学校が終わったから、家に帰ってリビングで一人テレビを見ていた。家の真横には川が流れていて、また道路を一本隔てて海沿いにあった。地震が始まった。地震は珍しくはない。そう言う土地で生まれ育った。しかしその時は何かが違った。それほど揺れは大きくなかったけれど、二分近く揺れは続いて、電気トースターなんかが収まっているラックの上に重ねられていたステンレスのボウルが落っこちた。食器棚はガタガタいった。ようやく揺れはおさまった。少しすると勤め先から母が急いで帰ってきて、津波が来るかもしれないといい、一緒になってそれほど高い場所にはない小学校に避難した。避難した体育館の二階にある色褪せたグリーンのマットレスが敷き詰められた一室にはちらほらと人がいたけれどけして多くはない。そこの窓から見える海は波が荒々しく見えた。気仙沼のまちには真っ黒な波の塊が押し寄せてたくさん人や建物や船、車を押し流し、それらを引き連れて海に帰っていった。1万2千トン以上の重油が流出し、海に流されたものを焼いて、12日間燃えた。まちでは火災旋風が巻き起こった。全長60メートル、330トン大型巻き網漁船である第十八共徳丸は多くのものを巻き込みながら、港から750メートル離れた市街地まで押し流された。私はTVの何度も繰り返される報道でその様子を放心したように見つめていた。第十八共徳丸は解体され、スクラップになり、今はもう残っていない。

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 気仙沼のまちにはたくさんの震災の痕跡が残っている。水の流れに歪められた川沿いのガードレールはそのままだ。なんとか流されなかった頑丈な建物には「東日本大震災津波浸水深ここまで」という印が貼られている。そして海沿いにはばかでかい堤防が建設されている。それらは文字通りの傷痕だ。注意深く見れば、そうした傷痕は街中に刻み込まれている。

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 しかしそれだけではない。気仙沼には震災当時の様子がよくわかるスポットが少なくとも二つある。ひとつは階上地区にある東日本大震災遺構・伝承館だ。ここはもともとは気仙沼向洋高校の校舎だった。地震が起きたとき生徒たちはすぐに高い所へ高い所へと逃げ、教師や用務員も含めて誰一人として犠牲者を出さなかった学校だ。そのため新校舎が別の場所に建てられ、この旧校舎は震災遺構として保存され、今でも当時の姿のまま残されている。

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 もう一つは山の中にあるリアス・アーク美術館だ。もともとはバブルの時代にできた美術館で、船の形を模した美しい設計で「1995年日本建築学会賞」を受賞している。またコンテンツとしても単にピカソなどの有名な画家の絵を買い集めて並べるような展示ではなく、東北地方や北海道など地域の芸術家の作品を展示したり、気仙沼の漁業用品など食を軸とした民俗にフォーカスした常設展「方舟日記」など地域における博物館の意義を考えた展示を行っている。

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また震災後には災害当時の写真や流されたもの、明治以降何度も襲った津波の歴史的な資料を集めた「東日本大震災の記録と津波の災害史」という常設展を行っている。私は市場や土産物屋、飲食店の集まったシャーク・ミュージアムで「もうかの星」(ネズミザメの心臓)を食べたり、お寿司屋さんで人生初のふかひれの握りをいただいたり、定食屋さんでエビフライ定食をいただいたりと、主として漁業のまち気仙沼で食道楽をしながらも、その二つをめぐろう考えていた。

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(写真はもうかの星、刺身こんにゃくのような食感。酢味噌でいただく)

 東日本大震災遺構・伝承館のある階上地区は駅のある気仙沼の中心市街からはかなり南へと下ったところにある。そこへは車で山道を抜けていった。アクセスはあまりいいとは言えない。そこに行くには中心市街からだと津波に押し流された気仙沼線の跡を通るBRTに乗って陸前階上駅まで行き、そこから20分ほど歩く。まわりに見えるのは盛り土の山と低い草の生えた区画だけで建物は何もない。そこにぽつんと四階建ての校舎だけが建っている。この地区は海に向かって県の切っ先のように突き出していて、当時は三方から波が押し寄せたという。だだっ広く感じる駐車場には何台もの車が止まっていて、県外ナンバーもちらほらと見える。

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 併設された真新しい建物のなかに入る、右手にはたくさんの観葉植物が飾られ、イスやテーブル、ソファなんかがある小さなホールがある。二十代半ばほどの若い男女が手前のほうの席に腰掛けてコーヒーを飲みながら談笑をしていたが、どんよりと重い感じでもなければ場違いに明るいわけでもない。受付を済ませて、棚に飾ってある販売用の震災関連書籍のサンプルに目を通していると、5分ほどでシアタールームに通された。そこでは報道の映像を交えた震災当時の気仙沼の様子が映し出された。それから震災直後のまちの写真が飾られた静かな真っ白い廊下を通り抜けると、遺構の中に出る。室内には物が散乱していた。棚の類はことごとくなぎ倒されて錆びつき、天井の板は崩落してコードが垂れ下がり、金属の梁がむき出しになっている。窓は見る影もなくぽっかり大きな穴が口を開けて、そこから冷たい風が吹き抜けてくる。乾いた泥や流されてきたコンクリートの塊、タイヤ、ブルーシート、そしてひっくり返った車までもが転がっていた。そしてそうしたものに交じって、かつて向洋高校の生徒たちが使っていたであろう教科書が散らばっているのだ。

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四階まで上がるとその床まで水が達していた。金属の棚の錆び具合で、どこまで水が達したのかがはっきりとわかる。そしてベランダからは流されてきた工場がぶつかって削られた壁面の生々しい傷口から、外の盛り土の山が覗けた。屋上に上がると、何もないまちだけが目にはいた。視線のずっと先には杉之下高台がある。そこには過去の明治三陸大津波の際には津波が来なかったことから市の指定避難場所になっていた。東日本大震災のときには約60人の方がこの13メートルの高台へ避難した。そしてそこに18メートルの津波が襲い、犠牲になった。ここならば安全だ、などという場所はない。より遠くへ、より高くへ。杉之下高台のふもとには慰霊碑がある。「あなたを忘れない」と刻まれている。私はその地に赴き、手を合わせた。

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 私はリアス・アーク美術館へと向かう車の中でずっと考えていた。私は何か思い違いをしていたのではないか。私は家も何もなくなったまちを見た。そして東日本大震災遺構・伝承館で削がれた壁面や流されひっくり返った車を見た。それらは津波の圧倒的な威力とその被害の大きさを物語っている。しかしなによりも打ちのめされたのは、あの投げ出された教科書だった。そこには生徒たちの姿があった。彼らは生きていた。私と何ら変わらない生活がそこにはあった。彼らは私と何ら変わりなく日々学業にいそしみ、部活をし、恋をしていた。津波が突然に奪ったのはその生活だったのだ。私たちは津波について語るとき、ややもすると死者の数や倒壊した家屋について語る。たしかにそれも大事だ。しかし彼らは抽象的な数字ではない、生きていたのだ。カラスがなく夕暮れの道を帰る市街地には、夕ご飯の匂いが漂っていた。そしてそれはもうないのだ。そしてそれが何よりも大切なことだったのではなかったのか。

 リアス・アーク美術館では昼食をとってから展示を見た。気仙沼の特産のメカジキと舞茸のパスタだ。こうして震災の側面ばかり見ていると忘れられてしまうかもしれないが、気仙沼は何よりも水産業のまちだ。波が穏やかなリアス式の湾を持ち、豊富な海洋資源によって発展してきた。カツオやマグロ、カジキ類、サメ類や養殖のカキが水揚げされる。カツオ漁は江戸時代に和歌山から伝わったのだが、今ではカツオの漁獲量は日本一だ。ある程度気仙沼を回ってきたから、ご当地キャラのホヤぼーやが「海のパイナップル」とよばれるホヤから来ていることもわかった。すでに触れた通りリアス・アーク美術館では水産業など食を基軸とした気仙沼の民俗の展示も「方舟日記」として行っている。そして「東日本大震災の記録と津波の災害史」の展示を見ていると、こうした水産のまちとしての気仙沼という視点は極めて重要だということがわかってきた。

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「東日本大震災の記録と津波の災害史」の展示は様々な展示物からなっている。被災の現場を移した写真203点と津波によって流されてもの155点、それに加えて明治以降だけでも東日本大震災を合わせて四度あった津波の被害の歴史的な資料や、自らも被災された学芸員の方が被災生活の中で考えた「東日本大震災を考えるためのキーワード」がパネル展示されている。

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そして重要なのはそれぞれの展示物について、文章が添えられているということだ。いわゆる解説とは違う。写真にはその現場で撮影した人の、その場で味わった感覚や思考を記してある。流された物には、被災者と語り合う中で、そのものに宿っている記憶を創作した文章を。ここにはただそれだけの風景ではない、歴史の重層性が見えてくる。そしてそれは個人史的なレベルでもあり、超個人的なレベルでもある。たとえば水に浸った宮下口公園の写真には次のようなテキストが添えられている。

2011年10月27日、気仙沼市朝日町の状況、宮下口公園の様子。冠水した公園には小舟が違和感なく浮かんでいる。一見すると単なる入り江の情景である。この公園には近所の小学生や犬を散歩させる人の姿などがよく見られた。また公園の前の大川ではお年寄りが数人で、毎日のように釣りをしていた。ちょっとした社交場になっていた。そのような光景を目にすることは二度とないのだろう。

そして流されたぬいぐるみに添えられているのは次のような文章だ。


 うちの子がね、大切にしてた“ぬいぐるみ”があったのね。それをね、すぐ帰れると思って、うちに置いてきてしまったのね・・・うちの子がね‥ポンタが死んじゃったって、泣くの。あの子にとっては、たぶん親友だったんだよね・・・
 あれから、うちの子、変わってしまってね。新しいの買ってやるからって、おばあちゃんが言うんだけど・・・いらないって、ポンタじゃなきゃダメなんだって言うのね。

場所やものには記憶がある。それは単なる抽象的な、交換可能なものではない。子の展示では物や風景に込められた、人々の生活の記憶を抉り出そうと努めているのだ。抽象的な人間ではない、生命を持った人々の生活の記憶を。キーワードパネルには次のような言葉が刻まれている。

■記憶…《ガレキ》
 瓦礫(ガレキ)とは、瓦片と小石とを意味する。また価値のないもの、つまらないものを意味する。
 被災した私たちにとって「ガレキ」などというものはない。それらは破壊され、奪われた大切な家であり、家財であり、何よりも。大切な人生の記憶である。例えゴミのような姿になっていても、その価値が失われたわけではない。しかし世間ではそれを放射能まみれの有害物質、ガレキと呼ぶ。大切な誰かの遺体を死体、死骸とは表現しないだろう。ならば、あれをガレキと表現するべきではない。

 そして展示はさらに超個人的なレベルの歴史にも踏み込んでいく。普通は超個人的というと社会的と言い換えるのかもしれないが、それには何となく違和感がある。個人対社会というのは必ずしも対応関係にあるわけではない。この展示では「東日本大震災の記録と津波の災害史」という名前からもわかるように津波の歴史というのを強く意識している。気仙沼は明治からだけでも明治三陸大津波、昭和三陸大津波、チリ地震津波そして東日本大震災と過去に四度の津波災害に見舞われている。つまり決して東日本大震災は、「想定外」でもなければ「未曾有」でもなく、あの時あの場所で偶然に起こった災害ではなかったのである。階上地区の写真には次のような文章が添えられている。

2011年3月27日、気仙沼市波路上内田の状況。波路上明戸側から押し寄せた津波が陸を越えて内田がわから内湾に抜けている。もちろん内湾側からも津波は押し寄せている。この一帯は震源の方角にかかわらず、大津波が押し寄せた場合、必ずこういう状態になる。明治の津波でも、昭和の津波でも同じことが起きている。なぜかこの経験が生かされないのか。ここはそういう場所だとわかっているはずなのに。

 そしてこうした視点は一つの自然観へとつながっていく。つまり「海と生きる」という自然観である。気仙沼はリアス式海岸という豊かな漁場を持ち、その恵みを受けて発展してきた。しかしその一方で何度もその同じ海が津波として人々を襲った。「海と生きる」とはどういうことなのか。それは単に海の恵みだけを受けて生きるということではない。その恵みと表裏一体な津波という災厄も同時に引き受けて生きていくということである。そしてそのとき、大きな堤防を作って海と人間とを切り離すのではなく、避けることのできない津波を大きな災害にしないように人々は生き方を変えていかなければならない。キーワードパネルにはいくつもそうしたメッセージが込められている。

■自然観…《自然観》
 手つかずの自然という言い方が物語るように、人間の影響を受けることなく、おのずからそうである自然というものは、私たちの知る生活空間にほとんどない。しかし、人間が自然以外のものだという考え方が傲慢な考えかもしれない。人間が生み出すものも、自然の一部として自然のリズムの中に生きていると考えるべきだろう。人間だけを自然から切り離してはいけない。人類は自然を畏れ敬い、自然のリズムに身をゆだねて生きたはずだ。その永い時間の蓄積を再認する必要がある。
■自然観…《自然災害》
 何らかの異常な自然現象によって引き起こされる災害を自然災害という。つまり、異常な自然現象そのものが災害なのではない。自然災害は自然現象によって「引き起こされる災害」である。災害とは様々な原因によって、人間社会や人命が受ける被害を言う。
 津波は確かに人間からすれば異常な自然現象である。しかし、自然界では異常ともいえない、常に起こってきた自然現象ともいえる。
 人間の力で津波をどうにかすることなどできない。津波という自然現象を災害化しないためには、人間が変わるしかない。
■自然観…《海》
 海に罪はない。海は私たちに多くのものを与えてくれる。だが、私たちの思い通りになるわけではない。

2011年に気仙沼市は震災復興計画を作成し、その副題を市民公募によって決定した。そしてそれこそが「海と生きる」なのである。震災を経て、海の恵みも災厄も受け入れて生きていくということが、気仙沼に生きる人々のアイデンティティとして再認されたのではないか。

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 気仙沼でのダークツーリズムを終えて、私は一ノ関に向かう列車に揺られている。一ノ関駅から新幹線に乗り換えて東京に帰る。車内の人は二車両ともまばらだ。車窓の風景は蔦のような植物が垂れたごつごつとした岸壁に閉ざされている。

 私はこの旅で何を得たのだろうか。もちろん多くのことを感じ、考えたことに間違いない。私には気仙沼の経験がどうしても自分とは無関係の事とは思えない。私の生まれ育った町も海のまちだ。子どものころはよく大きな堤防を背に砂浜で、押し寄せる大波から逃れることもできず立ちすくむ夢を見た。気仙沼は私の故郷だ。私の故郷がかつてあり、これからありうる姿だ。私は500キロ離れた気仙沼の人々と得も言われぬ連帯を感じる。これが全く私の個人的なものであるならば、この報告は必要のないものになるだろう。

 視界が開けた。山の中の小さな家と広がる田園風景だ。もうすぐ一ノ関に到着する。


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