私の幼少期。
私が覚えてる幼少期の記憶は、保育園の年中の頃からくらいしかない。皆さんはどんな記憶がありますか?
私の父母が自営業だった。自宅から車で1時間の所に店を構えていた。朝も8時頃に出てたのかな?夜はおそらく23時頃 帰宅だったのかな?。寝てる時に帰ってきてたので、全く記憶がない。会えるのは朝の数十分だけ過ごせてたくらいだと思う。会話したことがあるのかも覚えていない。
私たちきょうだいの生活は、親に変わって
遠方からおばあちゃんが短期滞在したり、 母方の兄夫婦が遠方からきて数ヶ月滞在して面倒みてくれたり、 県内に住んでいる父方のおじいちゃんが面倒見るためにじいちゃんの家に連れて行かれたり。
このローテーションだったかと思う。
私はじいちゃんが怖いし厳しいし、家も 土壁だし、ボットン便所だし、鍵も閉めないようなお家だし、ボロッボロッだしで、本当に嫌で、ぶっちゃけ嫌いだった。いつも決まり文句は「お姉ちゃんだから!“はい” は?」と私にだけ厳しい。ある時、手が滑ってお椀を落としてしまって汁物をこぼしてしまった時、家の外に出されて鍵を閉められた。(保育園の頃)
弟は、(男なんだからー!強くなれ!)と根性焼きをさせられたり。ちょっと変わった昔風のいかつめのじいちゃん。弟も当時4歳くらいだと思う。
☝︎これは今思えば若干虐待なのでは?と思っちゃう。
じいちゃんの家には、結婚してない じいちゃんの男兄弟が数人いたりで男ばかりで、独特の癖のある人達で…そのたまり場。
周りの子とは違う普通の環境ではなく 色々寂しいし、我慢してたと思う。
じいちゃん嫌いすぎて かかってくる電話すら嫌だった。
じいちゃん家行くくらいなら子供たちで真っ暗な家にいる方がマシだ!とさえ思ってた。
母方の応援でくる ばあちゃんや兄方夫婦は、うちでご飯を作ってくれたり、おうちでたくさん遊んでくれた。
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小1の頃は鍵っ子で、学校のあとは、児童館で過ごした。家に帰ると誰もいない暗いお家。ランドセルを置くと外に出て、近所のおばちゃんが縄跳びや自転車練習に付き合ってくれた。
うちに母方のばあちゃんが滞在してる時は、夕方、用事(パチンコ)を済ませ帰ってくる。ご飯を作ってくれる。遊んでくれる。
しかし、ばあちゃんがずっと居てくれるわけではない。九州に帰らなきゃいけないので、入れ替わりで今度は九州から兄夫婦がやってくる、笑笑
学校で熱が出ても 迎えに来れる人がいなくて数時間休んで一人で帰ったっけな?
お母さんの休みが火曜日と聞いて、それを知ってからは児童館が終わって速攻走って帰ってたっけな。ある火曜日、急いで走って帰っておうちにつくと真っ暗でお母さんが居なかったあの時のショックは大きかったな。
お母さんが居たからといってお家がわいわい明るいことはなく、常に疲れ切ってて?オーラも暗めで、暗い音楽を聴いてるか、1日中寝てるか、の姿しか見ていないけど、私の気持ちは暗くなるけど、居ないよりはマシだと思ってた。
何も食べてなくてお腹すいても、私たち兄弟は寝ているお母さんの寝てる横に座ってその姿を眺めながら遊んでるだけ。
両親に接することがない生活は、私が小1で終わった。そう、小2に転校することになった。
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お店の近くに引っ越した。友達との別れは凄く寂しかった。友達とは文通をするようになった。
小2から両親といる時間を確保できるようになり、なんだか不思議だった。父が朝風呂してたり、両親の寝顔を見ること。そんなゆっくり顔を合わせることがなかったので、 (あー、これが私のお父さんで、これがお母さんなんだー)って改めて認識したのを覚えている。
違和感がありすぎて…うまく喋る事が出来なかった。
だからなのか?なぜ始まったのか? は分からないけれど、ムーミン柄の分厚いノートに
その日あった出来事や、どう思ったかなど日記みたいなのを記す。それを勉強机に置いておくと、赤ペンでコメントが書いてある。そんなやりとりを結構続けた。
それから徐々に喋れるようになった気がする。
小さい頃にたくさん親とお話をすることは本当に大事だと思う。親以外でもお喋りは大事。私はずっと苦しんだ。自分の思いが言えず、。 いや、思いというものや、意見がなかった。今食べたいものすら意見がなかった。 きっと色んなものを我慢しすぎたのだと思う。親の顔色伺ったり、困らせないようにしたり。 だから“無” になってたのかなー。こういう状態を理解できる人いるのかな?きっと理解し難いと思う、💦(^_^;)
社会人になるまでずっと悩みだったな。
という まず小2までの呟き。。。
私の夢について今後描いていこうと思います。 今必至に毎日もがきながら出来ることを考えています。 サポートしていただけると励みになります。