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挨拶って必要? ~妄想記~

「あっっつたり前ジャン!!!」


そう、挨拶は、絶対、必ず、100%、大納言的に
必要に決まっているのです。

↑ これが、昨日までの私。

~~~~~~~~~

今朝?
昼ころに子どもが起きてきた。

ボーッとして、何も言わずに、
適当に朝?、昼ごはんを食べ始める。

すぐそばにいて、こっちは「!?!?!?」

「あれ?挨拶は⁉」

「あれ、おはようは?・・・でも、おはようって言うほどの時間でもないなぁ」

『こんにちは』か?でも、起きてすぐに「こんにちは」って、なんか違うような。。。う~ん、なんだか締まらん感じがする~。

、ってか、相手はただボーッとして、ただ朝ごはん食べているだけ。
オレだけ一人10倍速くらいで頭の中考えて、モヤモヤ・イライラして、自分の納得できる答えを探すため、猛烈に脳内検索かけている、、、って、割に合わんはっ!」

・・・と、暑い中、ひとりで頭から蒸気を出して、燃えていました。


そのとき、フト、この40何年間、一度たりとも想像すらしたことがないことが浮かんでしまったのでよ。

「えっ、挨拶しなくてもいいとしたら?」


*************
こういう自分でも想定外の自分・質問に出会うのは楽しい。
そこから違う景色がはじまるから。
状況はまったく変わらないのに、
見える景色と、感じる心象がまったく違うものになるから。
*************

もちろん、挨拶があるとコミュニケーションの潤滑油として、非常に有効。だからあるに越したことはない。でもしたくなければ、しなくてもいい?社会では必要だろうけれど、家庭内であれば、しても・しなくても、子どもという名の一個人なのだから、それを相手に強要するのは躾といえばそうなるけれど、もう自己判断できる年齢なのだから、しても・しなくても、それは相手が決めてもいいとしたら?

「挨拶はしなければならない」というフレームで見るなら、それをする相手は○、しない相手は☓、とそれは評価という名の裁判なのか?

生まればかりの頃は、挨拶というか、話せなくても責めもせず、ただ存在自体が可愛くて、それだけで癒やされ、十分だった。
単に十数年たっただけで、挨拶ひとつ○☓で相手を責める必要はどこにあるんだろう?
もし、相手が聾唖の障害があったとしたら、どうするんだろう?
相手が海外に住んでいたら、時間軸が違ったら、、、、どうするだろう?

結局、僕のイライラは、「相手を自分の思うようにコントロールできない、自分への怒り?」

・・・・・。挨拶、してもしなくても、好きにしていいよという仮定に立つと、こんな妄想も、イライラも、すべてがないものになる。
あれ?それが一番、お互いに平安なのか?

・・・結論は、

挨拶しても、しなくてもいい。
したかったら、すればいいし、
したくなかったら、しなくてもいい。
(※我が家において)


そんな目の前の小さな相対評価で相手を決めつけるより、

本当に大事な絶対評価で相手を信じることを選びたい。


自分も、
相手も、

対価ではく、真価で見ていきたいな。


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