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「動物と機械から離れて」

僕は「JIN-仁-」を超えるクオリティのドラマにまだ出会ったことがない。なぜならそれ以降まともにドラマ作品を見てないからである。

ちなみに2位は「ごくせん」、3位は「ルーキーズ」である。なぜならフルで見たことがあるのは、この3作品だけだからである。

これを見ているみなさんは、この文の意図していることが分からないと思う。

だが、どうか安心してほしい。

僕もなぜこの話を引き合いにしたのか、分からないからだ。

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この話は「現代に生きる医者が、江戸時代にタイムスリップしたら・・・」というのが主題である。

タイムスリップには非常に興味がある。

まずはどうやって時空間を移動するのかが気になって仕方がなかった。ドラえもんのように、何かしらの機体を用いてそのままの状態で移動するのか。はたまた南方仁(JINの主人公)のように高所から落下する際に、肉体と精神が目に見えぬほどに細切れになり(イメージは瞬間移動)、スリップした時代にて身体と精神が再編成されるのか。

でも再編成される場合、元の状態と寸分違わぬ状態に再編成しなおせるのかが疑問である。パーツ一つ一つの組み合わせは合っているかもしれないが、そレラパーツの関係性は元通りに戻るのだろうか・・・。デカルトの言うように機械論的にいかないのが、生命というものであろう。

とまあ、技術的な話はさておき、仮にタイムスリップが社会実装されたとしよう。

”北海道グルメツアー”と称して大所帯でツアー旅行するかの如く、「それでは黒船来航を拝みにいきましょう」ツアーなるものが展開されるのだろうか。その際に添乗員が「歴史に修正を加えてはならないので、当時の人には話しかけたり、気づかれないようにしましょうね〜」と言われる時代がやってくるのだろうか。

ただ一方で、テクノロジーがいくら発達しても、ほんの数年で社会が劇的に様相を変えてしまうことはないように感じられる。おそらく2050年も、今と同じような町並みであろうし、脳が電極に繋がれていることもないだろう。

なぜなら、技術革新と社会実装は別次元で議論されているからである。倫理的な問題にどう折り合いをつけるか、法律はどう設定するか。グローバルに接続された国家間の不均衡をどう是正するか。考えなければならない人文的問いは山積みであり、答えを出すのに膨大な時間を要するであろう。

この文脈で一番身近なテックといえば、「AI」ではなかろうか。人間の雇用が奪われるだとか、人間を滅ぼしかねないだとか。様々な憶測が世間を賑わしている。

時世に乗るのはあまり好かないが、今回はこの本を取り上げることにした。


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タイトル:動物と機械から離れて〜AIが変える世界と人間の未来〜
著者名:菅付雅信
ページ数:310ページほど
出会い:僕の大好きなメディア『WIRED』にて、作者のインタビューと出会う。

この本ではAIに携わる何人もの著名人をインタビューを元に、技術研究、ビジネス、哲学、政治、芸術など様々な側面からAIに対する捉え方を展開している。また国によってAIをどう位置付け、投資/規制をしているかの差異も見れるのもまた面白い。

AIがユートピア、もしくはディストピアな世界に変容させようとも、対峙しなければならないのは「自分とは何か」という問いであろう。

例えば、Amazonのリコメンド機能。自分/他人の消費傾向をデータ分析し、シンクロしたものをリコメンドしてくれるわけだが、果たしてそれは本当に自身の望むものなのだろうか。また仮にデータ分析が進み、真に自分の消費傾向が分かる=「自分」について解明できたとき、果たしてそれは真に「自分」と言えるのであろうか。

「偽装された自分」を「真の自分」と誤解しているだけではないだろうか。

ただここでふと疑問に思うのは、「人間はそもそも自由意志を持って選択をしているのか」ということである。

僕の人生を方向付けるような意思決定を振り返った際、そこには常に他者の存在があった。

サッカーやそろばんは弟がやっていたからだし、中・高と学校のグループのリーダーになったのも友人からの薦めに依るところが大きかった。休学したのも、信頼できる友人がいたからである。

他者の存在抜きにこの意思決定ができたかというと、こうも行かなかったのではいかと考えることがしばしばある。

東浩紀著「動物化するポストモダン」では、このファストフードのような消費社会の結末を「人間の動物化」と表現していた。まさにその現実はこのコロナショックにより浮き彫りになりつつある。その一方で、この動物化そのものに悪があるのではないとも述べている。問題は、「動物化から解放されたい人たちのオルタナティブをどう維持しておくか」ということなのである。

この本ではAIにおける可能性と限界について多方面から言及されている一方で、一貫してしてメッセージは、「自分とは何か」ということなのだ。

このコロナショックによる在宅の時間が膨大に増え、外部との接続はスマホ越しに限定されつつある今、いかに身体的な刺激に日常の彩りを依存していたのかを痛感させられる。

しかし今が絶好のタイミングなのであろう。

古代ギリシャの哲人たちは奴隷制度を元に暇を生み出し、思想哲学が発達してきた。現在における奴隷制度はまさにこのコロナショックであり、時間ある今考えずしていつ考えるというのだ。

自分について、一度深く考えてみる。一体何に幸福感を見出して、何を未来に望みたいのか。

僕は研究者の端くれでもなく、頭の切れるビジネスパーソンでもない。加えて経験値にも乏しい。ゆえに「自分とは何か」なんて人類がこれまで答えを出せていない問いに答えられるはずもない。

ただ自分のことを考え続けること、すなはちこれこそが「自分」であり続けられるための第一歩ではないだろうか。

人間であり続けるために努力が必要となる未来が、もうすぐ目の前に広がっているのだから。






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