夜に家の前で怖い目にあった話

煌々と月が照る夜、自宅の車に尻を撫で付けている猫を真顔で見つめていると、犬の散歩途中の女性がオヤジに絡まれ始めた。

女性の犬がオヤジに抱えられ逃げられぬ事を良い事に、オヤジはマシンガントークを続けていた。
猫を見つめる作業を中断しオヤジの会話を請け合おうと歩みを寄せたが、どのように声をかけたら良いか決めかねたままオヤジと女性の前に到達してしまった。

無言でオヤジと私が見つめ合い、それを女性が見つめる謎の時間が生じてしまった。
このままではオヤジに熱視線を送る軽めの不審者となってしまう。
頭を悩ませた結果、犬を糸口に会話に介入しようと思いつき「撫でてよいか」とオヤジに声をかけたが、滑舌の悪さにより
「おじさん、頭舐めてもいいですか?」
などと、オヤジを舐める為にわざわざ寄ってきた重めの不審者と化した。

オヤジにとって見つめ合った直後の会話としては恐怖が過ぎる内容であった。
たった一文字異なるだけでこのような不気味な事態になろうとは思わなかった。
オヤジの言葉の集中砲火は止まったが、代わりに警戒の色を含む重い沈黙が訪れた。
我々は今新たな緊張の局面を迎えている。

「舐める」ではなく「撫でる」方であると誤解を解くべく尽力したが
「口に含む方ではなく、頭皮に少し触れる程度のものですよ」
などと申した為に「軽く一舐めならば許される」とでも思っているかのような言い草とな
った。
世が江戸時代ならば、風呂釜というワンクッションを挟む事なく直に人間を舐めてくるタイプの「妖怪あかなめ」として記述されかねぬ事態である。明らかに退治対象であり、妖怪の書に危うく私という名の汚ない花火が上がるところであった。
私は現代に生を受けた事に静かに感謝した。

オヤジも決して舐められたくなければ、女性もそんな恐ろしい光景を目の当たりにしたい訳もなく、私も特にオヤジに舌鼓を打つ気もなければ、犬も迷惑そうである。
誰一人幸せにならぬ地獄のようなルートに入ってしまった。
そんなに語らいたくば、私がお相手しようという意で言った「話し合おう」という言葉も、今や一舐めする事に情熱をそそぎオヤジに説得を試みる言霊が宿っている。

オヤジは私という危険因子が現れた事により両手が塞がっている事に危機感を覚えたのか、そっと犬から手を離した。
犬は私の横を極端に迂回し、飼い主の元へ戻った。

角が立たぬようオヤジと女性の両者に、この近辺は不審者がよく出るので早く帰路についた方が良いと伝えた。
今や不審者の代表格と化した私の口から語られた為、凄まじい説得力を発揮した。

ややあって近隣の者が通報したのか丁度巡回していたのか定かではないが、警官が二名訪れた。
最初は私も被害者側として扱われていた気がしたが、事の成り行きを女性が説明すると警官がこちらを向き
「ところで、あなたはこんな夜中に何を?」
と、訊ねてきた。

車に尻を撫で付けている猫を見つめていたと話すと、警官の私を見る目が心配の眼差しから事件性がある類の不審者かどうかを見極める眼光へと切り替わった。
オヤジと肩を並べて連行される恐ろしい未来が頭を過った。
私はオヤジが
「危うく頭皮を一舐めされるところでした」
などと余計な事を言い出さぬか不安になり、こちらと離れた所で警官と話すオヤジの方を見つめた。
オヤジは私と目が合うと不気味なものを見た顔をし視線を逸らした。
遺憾である。

【追記】
私と会話していた警官は最後に
「猫ちゃん、お尻痒いのかなぁ」
と、猫の尻に思いを馳せて去っていった。

因みに、我が家の車のタイヤは猫界で尻擦りスポットとなっているようで、その猫に関わらずわりかし色んな猫が尻を擦りにやってくるので、車を出す時には厳重に確認が必要である。


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