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「人」でも「ヒト」でもなく、「ひと」 ~小野寺史宜『ひと』を読んで~

 『ひと』は、僕が信頼と尊敬を寄せる友人から紹介された小説である。彼曰く、「活字の漫画」とのことだったが、実際に読んでみるとその表現がひどくしっくりきた。一文が短く、テンポが良い。青年の1年を追う物語で、短くはないのだが、すぐに読むことができた。

~あらすじ~
主人公の柏木聖輔は、昔に父を交通事故で亡くし、二十歳の秋に女手ひとつで私大に進学させた母が急死した。聖輔は大学を中退し、就職先の当てもなく、完全に孤独の身となっていた。そんな折、偶然通りかかった砂町銀座商店街の総菜屋で50円のコロッケをお婆さんに譲ったことから、聖輔の新たな人生が始まっていく。

 死、孤独、恋愛、人生、別れ…。色々な主題が織り込まれており、歳の近い聖輔に自らを重ねて多くのことを考えた。そのなかで、僕の中に残った極めて大きな問いが、

なぜ小野寺先生は「人」でも「ヒト」でもなく
ひらがなで「ひと」とタイトルを付けたのか

だった。

聖輔のクリアな視点から見える「ひと」

 本作には、多様な「ひと」が出てくる。聖輔の父と母はもちろん、彼の友人、友人の友人、友人の元恋人、友人の母親、務めることになる「おかずの田野倉」の人々、客、遠い親戚…。50円のコロッケを譲ったことで、今までの人生にほとんど関わりの無かった人々との縁が生まれていくのだ。

 孤独となり、頼る当てもない聖輔の周囲には色々な人がやってきた。善意で彼を助けたり、支えたりする人がほとんどだが、なかには保護者のいない聖輔にお金を無心したり、利用したりする人もいた。

 「ひと」が本当に良く見える作品だった。その「ひと」を見つめる視界のクリアさは、聖輔の境遇がもたらすものかもしれない。何もかも失った聖輔にとって、「ひと」こそ全てであり、縁こそ彼を救うものだった。だから、遠い親戚の基志にお金を無心されても、剣に自宅をラブホ替わりに使われても、許した。それは、自身が持つ僅かな「財」以上に「ひと」が重要だったからだ。

 聖輔は、どんなに嫌な奴であっても、良い人であっても、「ひと」を型に押し込めず、その「ひと」個人を見ていた。その「ひと」がどんな背景を持っているかなど、自分との接点のみを自己本位的に見るのではなく、その「ひと」を見ていた。

聖輔のそうした視線が、「ひと」という題に反映されているのではないだろうか。

「人」、「ヒト」ではなく、「ひと」

 「ひと」というとどこか温かい感じがする。それは本作で表現されているように、「ひと」には個人を見つめる視点がある様に思うからだ。

 「○○人」と型や属性に押し込めることなく、または「ヒト」という種で見るわけでもなく、その「ひと」をただ見つめる。

 聖輔が見たのは、決して「ひと」の綺麗な所だけではなかった。弱みに付け込もうとする「ひと」、自尊心から無自覚に他人を傷つけてしまう「ひと」…。

 しかし、それを含めて「ひと」なんだとこの小説は教えてくれる。本作は、そうした汚い部分を断罪することはなく、そこに優しさを感じる。それは、聖輔が「ひと」を見る視線そのもののような気がした。

 ああ、わかった。僕はこの小説を通して「ひと」として見られていたのではないだろうか。僕は、果たしてどんな「ひと」なのか…?そんなことに考えを馳せた。

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