「ティファニーで朝食を」を読んで

トルーマン・カポーティが書いた『ティファニーで朝食を』を村上春樹の訳で読んだ。

本作、私は映画で有名だったのは知っていたが見たこともなかったし、ましてや原作小説も読んだことがなく、初めての受容だった。感じたことは、ヒロインであるホリー・ゴライトリーの人生哲学が素晴らしいというものだ。

何にでも慣れたりはしない。そんなのって、死んだも同然じゃない
誰のことだって愛そうとおもえば愛せるんだって
空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽでらだだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消え失せていく場所なの
女たるもの、口紅をつけずにその手の手紙を読むわけにはいかないもの

読書中は忘れていたのだが、彼女は19歳である。しかし、それまでの人生は14歳で結婚したり、娼婦として生活するなど、壮絶かつ、きわどい生活をしていた描写が描かれる。そうしたゴライトリーに対するリアルな描き方が一つの魅力だ。そして、その壮絶さやきわどさが彼女の人生哲学を形成していたのだ。

そして、本作は男女の仲を、簡単にロマンス路線に乗せないところも魅力的だ。語り手とゴライトリーの関係は、あと一歩踏み込めばラブロマンスに発展する。しかし、本作ではそれを拒むかのようにそこに発展させなかった。

いや、もちろん読み手が変われば、2人はロマンス関係にあったと言うかもしれない。

しかし、私はそう読めなかったし、読みたくなかった。

2人は、何か違った、「男女」という枠に収まらない関係があったように見えたのだ。それは、ゴライトリーが娼婦であったかもしれないし、まだ二人が若かったからかもしれない。ただ、2人のどこか儚い関係性が、僕にとってはとても尊く見えたということであった。

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