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私が鍼灸師になった理由

 こんにちは。改めまして自己紹介させていただきます。

 大慈松浦鍼灸院および神保町十河医院附属鍼灸院の副院長として鍼灸臨床に携わっています松浦知史(まつうらさとし)と申します。

 車と腕時計が大好きな29歳で11月にはついに30歳を迎えます。鍼灸師歴は8年目となります。保有している車はアウディQ3スポーツバックで、腕時計はロレックスのチェリーニとグランドセイコー、IWCのトップガンです。

 26歳のときに一戸建ての注文住宅を購入し、27歳のときに男の子、そして29歳で女の子が生まれたため、二児の父でもあります。

幼少期から高校時代

ハングリー精神を養えた学生時代

 幼少期からソフトテニスや水泳、ソフトボール、柔道、ボーイスカウトなどの習い事をしていましたが、中学からはソフトテニス一本に絞って熱心に取り組みました。中学では県大会2連覇、東日本5位まで結果を残すことができ、高校進学の際には私立高校より多数の推薦をいただきました。しかし、恵まれた環境で結果を残すよりも、一から取り組みたい気持ちが強く、テニスコートが計4面(男子2面、女子2面)の公立高校に進学しました。
 その高校は数年に1度、関東大会に出場できるかどうかのレベルで、コートも凹凸がひどくラインも剥がれているような状態でした。そのため練習よりもコートの環境を整えることに時間を注ぎました。準備体操や練習のメニューなども考え、一生懸命に取り組みました。その甲斐あって高校3年時に関東大会に出場することができましたが、インターハイにはあと1勝のところで敗退してしまいました。

部活動から学んだこと

 私自身は高校では大した成績は残せませんでしたが、私たちの取り組みは後輩に受け継がれ、その後は県大会5連覇やインターハイの常連校になるなど強豪校へと成長しました。これらの経験から学んだことは「環境のせいにしないこと」と「情熱を燃やし続けること」、「後輩へのバトンをきちんと繋ぐこと」の重要性を学びました。

私が鍼灸師になった理由

鍼灸師を志したきっかけ

 私は元々鍼灸師になることは想定していませんでした。それは、鍼灸師である父の忙しさを見てきたからです。父は20代で父親(私の祖父)を心筋梗塞で亡くしており、支援がなく経済的にも苦しい状態でした。そのため鍼灸師になりたての頃は鍼灸院に勤めながら大工の仕事もするなど二足の草鞋を履くような生活をしていたそうです。開業後も朝早くから夜遅くまで働き、一緒に食卓を囲んだことが記憶にないくらい働いていました。そのため私は早く自立がしたくて商業高校に進学し、卒業後は企業への就職を考えていました。しかし、高校3年生の夏に父の肝臓がんの発症を契機に、様々な葛藤がありましたが、学内推薦での某大手企業の内定を辞退して東京有明医療大学への進学に進路を変更しました。

大学時代

 在学中は2つのアルバイトを掛け持ちしながらも学業面においては大学4年間を通してすべての科目(必修科目・選択科目をすべて選択)でA評価を取ることができ、東京有明医療大学賞も受賞することができました。

東京有明医療大学賞受賞

 学会にも積極的に参加し、全日本鍼灸学会の学生発表も経験することができました。また、学会を通じて知り合った開業されている先生方の治療院見学もさせていただき、臨床のリアルを学生時代から肌感覚で学ぶことができました。

 写真は2016年11月に東京とつくばで開催されたWFAS(世界鍼灸学会連合会学術大会)の経絡治療の実技セッションです。このWFASは日本の鍼灸界にとって最大のイベントであり、世界各国から1700名以上の参加者が集まりました。日本を代表する経絡治療は世界的にも注目度が高く、最も広い会場でセッションが行われました(モデルとして参加)。

経絡治療学会 会長 岡田明三
背部兪穴への刺鍼(被験者は私)

研修時代

 私は卒後、大学病院などの医療機関での研修を希望しました。それは、①現代医学を幅広く学び、医師を含めたメディカルスタッフの各々の役割や業務内容などを把握したかった、②今後のキャリアを積むうえで鍼灸師としての差別化を図りたかった、③最前線で活躍している先生の下で勉強したかったなどが主な理由として挙げられます。それらの条件をクリアしたのが福島県立医科大学会津医療センターでした。同センターでは、鍼灸研修生は准職員としての役職を与えられ、日給が8,200円も支給されるため、学びながらお金をもらえる環境というのも魅力のひとつでした。

よりハードな道へ

 会津医療センターでの前期研修が修了し、その後の就職先は埼玉医科大学東洋医学科ならびに同大学かわごえクリニック、そして神保町十河医院附属鍼灸院の3施設を選択しました。鍼灸師として早く一人前になりたかったので、同時期に複数箇所の施設で実臨床を経験しました。ハードではありましたが選んで良かったです。それは都心部と地域、施設間における鍼灸の役割を肌感覚で学べると同時により多くの臨床経験を積むことができたからです。

埼玉医科大学東洋医学科(最前列左から3番目が私)

同時期に4施設の勤務を経験

 埼玉医科大学に勤務して2年目からは、大慈松浦鍼灸院での勤務も始めました。つまり、同時期に4施設での勤務をしていました。各施設における仕様や来院する患者層にも違いがあり、鍼灸師としてのレベルを向上させるためにはこれとない環境でした。ただ、私にも家庭ができ、仕事との両立に悩む時期でもありました。家に帰る時間も遅くなりがちで、日曜日も学会などに参加する生活では家庭を円満にすることも容易ではありませんでした。
 また、この頃から医学博士の取得を目指すよりも、地域に根差した鍼灸師としてキャリアを築いていきたい気持ちが強くなってきました。それは都心部と地域に従事することの良さも実感していたためです。鍼灸師としての経験を十分に積んでから、具体的な研究テーマを持って通信制の大学院へ進学するのも遅くはないと判断したため、現在の働き方になりました。つまり、家庭ができて仕事との両立やそのバランスの調節、何かを始めることに遅いことなんかない(むしろ経験を積むからこそ考え方が変わることもある)ことに気がつけだからこそ今の自分がいます。大学時代に思い描いていた未来像とは少し異なる部分はありますが、今は鍼灸師として働けていることに誇りとプライドがあります。

 私が鍼灸師になることはきっと最初から決まっていたのかもしれません。
 自分の人生をかけて挑戦し続けることのできる鍼灸師になれて今では良かったと思えています。

我が家の自慢(新聞記載)

 このnoteを綴った日も8月9日で鍼灸(はりきゅう)の日でもあるので何か切っても切り離せない運命があるのでしょうか。

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