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私の原点は夜学に通ってた頃に週三回通った付属中高での図書館アルバイト。

大学図書館はオンラインシステムが主流だから、予約や延長作業は自動。だから、貸し出し中の本を予約できるって嬉しい事だったんだ、というこういうエピソードや学校司書さんの「ちょい押し」活動って、僕にも覚えのある原点の活動だから、ものすごーく大事にしたいし常に思い返せる人のブログに出会えるとすごく嬉しい。

学校図書館の経験から文学まるごとの国語の授業へ

倉本聰の「ニングル」を中学三年生と2学期まるまるかけて1冊読み通した授業をしたことがある。夏休みの宿題が1冊まるまる「ニングル」の感想文。中学最後の文化祭準備にこれから行くぞー!!!と燃えてる教室に戦慄が走った。あのゴリラ野郎!なんて傍若無人な課題を出しやがって。短編だって読むのが苦痛なのに1冊だとお!!!

それが、夏休みを開けたらタイヘンな事になった。

感想文の大半を教師への抗議で埋めるつもりでせっかく延々5枚も抗議を連ねたのに、本の中身に圧倒されてそこから10枚以上感想文をしたためてくれた子もある。一家言ある子で最初僕に反発してきた子でもある。でもこの子に振り向いてもらいたい思いで選んだ「とっておきの1冊」だったから、こちらの挑戦に応じてくれて本当に嬉しかった。「なんてことだ!こんなことなら文句書くんじゃ無かった!敗北だ!一生懸命読まされてしまった!教師を圧倒するぐらいこの作品の魅力はオレが語ってやる」頼もしー♥

2学期の終わりには全員が演劇部?というぐらい自分達で芝居ができるぐらいのレベルに読み込まれていた。だから、僕はまるで研究者の発表のように、作品形象からダブルイメージされる倉本聰のまなざしについてまで、ある意味挑むように語りあい、提案し、彼らの追跡された印象でより感動的な場面が補強され高め合う空間に変わっていた。3クラス共形は違うがグイグイ彼らに引っ張られて授業が進んでいった。魔法のような瞬間を味わうことができた。
ニングルの長老がチュチュを眠らせ忘れるように仕向ける。「知らん権利」というもの、とかく「知る権利」と人はいう。法律にあるから、無いから、の尺度だけで裁判官でもないのに人を裁いたりもする。まるごとの人間と寄り添うとき、生きざま・意気地・スピリッツが試される。
スピリチュアルというのは生き様を問う事だ、そう今では思える。
未熟者の自分はあの頃は作品世界に酔って彼らに脱帽しながら震えていた。

「倉本スゲー」と体を震わせ、目をウルウルさせている生徒もいた。授業は教えるものではない。媒介者に徹すればいい。それ以上実はもう僕にはできなかった。「生徒が教師を超えた瞬間」でもあったのだ。

図書館を中心にした学習空間
 =アクティブラーニングの基本っていうけれど=

そういう視点とスタンスを、僕は夜学に通いながら週三回アルバイトしてた付属の学校図書館で教わっていたんだなと今改めて思う。大学付属の中学高校というのは受験勉強がないから生ぬるい感覚と、競争原理やいじめから少し遠のいているから生徒がみな子どもっぽい純粋さを残している。すれっからしでないのだ。だから、人間の可能性という事について信じてみようという気概があった。これは教師冥利に尽きる空間でもあったと思っている。
放課後になると、部活休みの日に部室をつかえない子は図書館のかたすみで2~3人が集まって宿題をやっている。分からないことを得意な子からおそわっている。教師には反抗的だったり寝てたりする子が活き活きと質問している。教える子も一生懸命教えている。だから練習の忙しい子たちほど勉強がよくできる、という事は僕がバイトをしていた80年代にすでにわかっていた。教育工学の学者があとから法則性を見いだしてくれただけのことだ。
「教えあいっこ」は付属出身の学生が大学に進学してきても図書館でみせていてくれる微笑ましい光景だ。入学式の直後から仲良く現れるからすぐわかる。これが出来ている伝統がどの大学でもあるだろうなと期待する。
だから椅子取りゲーム=相対評価で大学推薦を切られてしまう環境は本当はキライだ。僕は教員を10年でやめて大学図書館員になったわけだが評価しないで済むことがこんなにも学生の可能性とだけ向き合えるのか、と大荷物を降ろした気になったものである。

くりかえしになりますが・・・

まるごとの文学体験からまるごとの人間のメンタリティを鍛え直される瞬間。このブログを通して、あのワクワクを思い出せた。ありがとう。
どうかこの方の文章をじっくり読んでワクワクしてくれると嬉しいです。

◇14. 学校図書館での日々
さわぐりさん:2023年9月20日
https://note.com/sawaguri_cph/n/nefdd4e5c452c



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