見出し画像

当事者特権を発揮し続ける意義=Freedomの勉強会が果たし続けている役割=



 ここに掲げたのは、2015年に大阪ダルク「フリーダム」が掲げている学習会情報。すごいのは時代を先取りしているなあということ。UNAIDSやIAS、Harm-reduction Internationalの動向を見ている自分目線からみて、日本の現状を見ると、フリーダムで倉田めばさんが提起している課題意識は、日本の現実から20年~50年は先を見据えていると思う。
メディアで最近「ダメ!!絶対」へ忖度してかフィラデルフィアなどのオピオイド禍、ゾンビ通りなどの話題がテレビに踊り、国立国会図書館のニュースレターで今更のようにアメリカの公共図書館が覚せい剤の除染のために休館措置をとるニュースなどを垂れ流しにしている。アメリカの公共図書館の除染活動はすでに政策上のシステムに乗っかっている現象をことさらに日本で記事にしているフシがあるので、これは別の機会に書くことにする。あえてここでは触れない。
オピオイドを末期がんや慢性疼痛に与えることができればどんなに緩和ケアに役立つだろうと夢想する日本の臨床の意見がある。医療大麻もアメリカのAIDS末期患者への緩和ケアで導入しようという現場の闘いが大麻解禁に繋がった。

「オピオイド(鎮痛剤)」依存症治療での現場では治療にどう向き合ってきているのかについて依存症治療の立場、そしてハームリダクション最先端の病院現場でオピオイド(鎮痛剤)や医療大麻に関する向き合い方まで材料に語られていく。
傑作なのはめばさんとカナダ・オンタリオ州立病院のソーシャルワーカー、みなみおさむさんの対談だろう。市販薬を気軽に飲むのは自己治療行動でもある。それが薬物乱用の基本スタイルの一つかもしれない、という二人のトークは自己治療学説がどうのという検証ではなく自然な人間の行動選択の話題の中で語られていく。「依存症・嗜癖行動はこうであるべき」ではないのだ。べきとして枠にはめられた瞬間に、当事者の新しい苦悩を生んでしまうのではないだろうか。型にはめられたり、誰かに指図されたり、誰かの命令のままに支配されることが何よりの苦痛である人たちというのはあるものだ。それは発達特性だけの問題でも精神病理だけの問題ではないだろう。もっと当事者の目線と成長の特徴と特長に目を向けたらもっと違うところへ執着や可能性を見出すかもしれないのが「こだわり」というものでもある。
 自己・自我領域への侵害に耐えるために行われる防御行動が反抗や抵抗であるように、麻痺という抵抗する方法もある。飲酒がそれにあたる。薬物使用も含めた防御の反応と行動選択の一つとして見ることができる。そうなると、健康被害=長期毒性=の方が重要な課題になってくるはずで、それを世界的に統計をとればアルコールの弊害の方が覚せい剤などより重篤だということが分かっている。脳の破壊が激しく、囚われ思考や暴力に訴えることで、当人の健康被害だけでなく家族や友人、地域社会への実害が出ていくのがアルコールでもある。
で、オピオイドも、フィラデルフィアのゾンビシティを生み出したわけだけれども、元をただせば関節の痛みや慢性疼痛の緩和のために処方された薬の長期毒性が生み出したともいえる。

<受講してて思っていたこと>
厳罰主義一辺倒、AIDS予防啓発もABCアプローチ一辺倒だったアメリカが、大きく舵を切り、サンフランシスコやニューヨークの街頭でIDUの針感染予防のために注射器配布をしている。オレゴン州ではポルトガルに続く形ですべての麻薬使用について非犯罪化された。そのことで重篤な犯罪が激増したような事例は全く報告されていない。むしろ収監される薬物犯が激減したことで刑務所経費は下がり、薬物を使いながらでも働いている人たちの納税は続いているわけで生産性が落ちていない。捕まえるべきはマフィアや暴力組織であって市民ではないことの何よりの証明だともいえる。科学技術は依存性物質の特定と医療や健康保健などへの応用ができる成分との分離など研究すべき分野に技術とお金を傾注できるのに今までしてこなかった。すでに日本の中で「Cill Out」という大麻ドリンクが自販機で売られているところまで来ている。すでに健康大麻ドリンクが売られているのに、大麻使用罪が検討されるというのはタテ割り行政の「農地を住宅へ変える減反政策」をやりながら「喫水湖を埋め立てて農地をふやす」という愚と何ら変わらない。最終的に食糧自給率を下げつづけ、高い単作作物(タネや株分けをのこさない作物)しか作らせず、規格品しか売らずにすてさせる。つまり消費地以前のステージで大量の食品ロスを作った産物しか市場流通しない矛盾社会を生み出しているわけだ。せっかく民主主義社会だという建前を持つ社会に生まれながら、きちんと行政サービス=政策が誰のためにあるのかを検証し続けなければ、農家の人々さえが経営者・支配者の哲学に洗脳されて国民の首をしめにかかってくる、という典型的な事例でもある。「不断の努力」が必要な永久未完成・運動型の仕組み=それ故に努力し続ければ必ず少しずつ上昇スパイラルを持ち得る仕組み=が民主主義社会の良いところでもある。根気が必要だが根気をかけただけのことは必ず見えてくる社会が民主主義だ。てっとり早く結果は出ない反面、である。

<「オピオイド・セミナー」から「アディクション・カフェ」へ>

 最近受講した「フリーダム・セミナー」と「アディクション・カフェ」についても少し紹介したい
オンライン配信が可能であった「アディクションカフェ」なども、厚生労働省的には「啓発事業」であるはずなので、話題提供の部分だけでも繰り返し発信されることは予算効率上良いことだろうとは思われる。
一方で「記録事業」的な要素も今の段階では必要なことなので来年度以後の補助事業申請ではぜひ「DVDあるいは音声メディア作成」の項目申請も加えておいてくださるとあとあと配布や販売ができるようになるのではないかと思われる。著作権譲渡契約やCC=BYライセンスは確保できていれば大学と臨床と行政はウエルカムな情報源になるだろうからである。
せめてZoom配信やビデオ録画を残し続けて何らかのアーカイビングの素材を残しておいてほしいとは思っている。
この「オピオイド・セミナー」があった2015年といえば、日本の幾つも立ち上がって(私目線では乱立していた)いた精神医学会が組織を集め「ハームリダクション」を統一テーマに掲げた2018年より3年も前の話である。
これだけ意欲的で画期的な切り口の提起はその後、近年の「アディクションカフェ」事業では「『回復』に殺されないために」と日本の当事者自助の岐路について示唆に富んだ話題提供をしている。

僕はこのメッセージを受け取りながら、ちょっとだけアルバイトよりは稼いでいる今の自分の就労状況に向き合いながらほぼ毎月この意欲的なプログラムに参画してアンテナを張る努力をしている。変貌し続けるように見えて終始一貫している視点をもう少し見て見たいと思ったからだ。繊細なまなざし。情報を持ち帰るのは「人」でしかない。アクションがあればリアクションが必ず起きるが、そのすべてが当事者に有益なリアクションにはならない。だからこそその後、当事者がどう持ち帰って自分たちの行動選択の肥やしにできるのかを考えることも僕らの役目だとも思っている。だけど、できない事と出来ることが必ずあるわけだから、できる人ができる限りのことをできるようにする。そのためにこそありとあらゆる現場の仲間が手を取り合う必要もある、というところだろう。だが、当事者は一方的なダシでも材料でも素材でも対象でもない。自分たちに都合よく作られてこそサービスだ。私自身が収めた税金を私が納得する使われ方をしてもらう権利がある。ヤクチュウ全員ナマポだなんて誰が決めたんだ?と思いながら、どこかそうしておけば支配下においておけるだろうという算段が見えて仕方ないと思えることが多々ある。冗談じゃねえと思う。死ににくく生きにくい社会を口を開けてみていられるほど能天気では居られない。
フリーダムが面白いのは、学界などの中で治療か罰かのような議論に傾くと、いち早く自己治療や自己調整を目指す行動選択の話題の指摘をし、そもそも当人が「自立的・自律的に行動をしなければならない」という強い意思が選んだ行動が先にあったからで「意思や思考を喪失」だけでバッサリはできない、と反証を提起し、「考えること」「断定せずに向き合うこと」が提起される。そして議論をさらに深めようとする。一方、薬物依存は自己治療目的だと断じようとする風潮に対しても反論を忘れない。一方的に可哀想な泣き寝入りのような構造ではないだろう。積極的に家族の支配に対抗・復讐する「悪い子」となる象徴的行為だって動機にもなり得る。アディクションはあくまでも症状の一つ、行動選択の一つというところか。薬物に問題があるわけでもない。人間と人間関係の中に問題はある。だとすれば時間の経過が長くなればなるほど「なぜ」を問う事が出来なくなっていく。そのこと自体が目的化されてしまい初発のエピソードや動機づけがどうでもよくなっていってしまうわけだ。この段階にまで持ってこられた重症者になれば目的やコントロールの喪失だと言われてもまあそういう事になるかもしれないが、「底に通じる道」から下ろしてあげようとする支援がどこか「回復」には「底付きが必要」だとばかり「もっと使え」と重症化を導いた「回復」しか準備できないのだとすれば、当事者の本当の苦しみと向き合ったことにはならず「重症者しか救われたためしがない」という皮肉な結末を本当に「回復モデル」と呼ぶのかという問題提起を忘れない。それは本当に寄り添ったベストな回答なのだろうかと。ここで顔を出すのが「患者」なのだから刑務所や牢獄病棟へ送るぞと脅せばいいのだ、という安易な言説にきっぱりと人権の目線で批判をしていくところも、当事者路線の王道と言うべきだと思う。
残念な事に、ここまで先駆的、かつ、実践を先取りできた情報リテラシー教育機会を作れているのに、私たちがそれを市民社会のなかへ、あるいは情報リテラシー教育の現場へ、もしくは政策プロセスへ持ち帰れているのかどうか、というところが重要だろうと思う。
これはアディクト当事者が自助会の現場ではなく、同じ個別施策層同士の治療アクセスや治療との連携の場に向けて若者や性的マイノリティ、女性などがフェーズごとの自主学習会で、まだアディクションが始まらないで済んでいる人たちを交えながらコミュニティ育成=啓発運動=に生かすために共に生きる一員として「失敗を語る」意味があるわけで、そのために当事者スピーカーが経験を運ぶ時代に入ってきているということにもなるだろう。
自助活動だけではない当事者学習会が作られていく自由さが求められるのも開かれた感覚であればこそなのだ。
もっと言えば、具体的に予防啓発活動を若い世代や女性たちと一緒に作るという時代が来ているということだ。
少なくとも日本で最初に世界標準的なHIV当事者へのケアを持ち込めていた「ぷれいす東京」が世界のハームリダクションへの知見やHIV対策個別施策層研究の成果を引っ提げて参画してくれているのは心強い事だと思う。
混乱を混乱のまま語る時代は終わらせなければならない。
どういうわけか日本の現場では「アタシ作る人」「ぼく食べる人」のような呪縛に足をとられてしまいがちだ。治療か処罰以外の議論がどこにも根付いていない危機を感ぜざるを得ない。政策・行政・教育の完全な欠如を思わざるを得ず、その現場に立とうとしている方たちに託さねばならない。
教養的基盤とバランス感覚を獲得できた当事者の育成というのは、日本に欠如した発想と事業構想だった。近藤恒夫氏が死の直前に言っていた「アディクション大学」構想はその最も具体的なイメージだったと思う。
アジア・中東地域にもアディクション学級といえる学校があり、大学受験資格を得られるプログラムを持っている機関がある。これを卒業すれば大学に進学もできれば高校卒業以上の資格で就職活動もできるように変わる。この視点が日本の学校や刑務所制度に決定的に欠けている。自助会でせっかく過去の生き方の清算や人間関係のこじれを修復できるだけの調整能力や傾聴能力、プランニングなどを身に着けてきている人たちが、高度化している社会で使える技能や基礎学力やクリティカルに問題解決にまで思考を運べるように変わったときに、のほほんと学校や塾に通って進学してくる純粋培養の子どもたちよりもはるかに、人にやさしく、困難で転んでも折れないたくましい若者に成長して高等教育の場から社会の一員になる選択肢も得られるだろう。それを選ぶか選ばないかは本人の問題であり、社会の役割を半ば以上終わったオッサン・オバハンがモノ申す問題ではない。可能性を積むことはたとえ先行く当事者同士であっても許されるものではない。
介入の悪夢とトラウマを当事者ヅラをして再現して良い権利はどこにも存在しないからだ。
最後に繰り返しになるが、フリーダムの学習会に出て面白いのは、当事者が関与するだけで、どれだけ政策提言にも匹敵する切り口の示唆を科学者たちに与え得るか、という示唆を与えてくれているしフォーカスがそこに向かわないと「理解増進」という掛け声だけで終わってしまう危機感を僕は思っている。
それだけの示唆と情報密度を持った自主的・自発的な当事者アライアンスの学習会がどれだけ組織できているだろうか?
最大の課題はその先にあるように思っている。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?