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【あらた星を探しにいきましょう】

 「上手く生きれないAがあたまの中に想い描く世界」
  完読時間:30分くらいです。      
       初めて小説を書きました。      
       お時間あれば読んでみてください。

        【序】 
 美しい星のひとつが生まれそうでした。

        【序章】
いつもと変わらずAは最寄り駅に到着しました。
なにひとつ変わらない日暮れのような朝でした。
けっしてあつくもさむくもないのですが、しかしそれはなにか瑞々しい終わりを予兆させるような何ともいえない質感の朝でした。
部分的に重量感のある曇天からは、はたしてそれは、だれかの悲しみの生まれ変わりでしょう、そのような生暖かな霧雨がほんの少しありました。
Aの頬にはむすうの細かな細かな雫が立っていて、それがA全体をうっすら輝かせていました。


Aの利用するこの駅の界隈は、だれもが知っている、例えば六麓荘町のようなハイカラで、いかにもな高級住宅地ではありませんでしたが、名の通った職業の長、株式や買収、取締役やら闇などのような肩書きを持っている選ばれたものだけは、駅前から幾分か山の手に向かった僅かの半径に住むことができました。
そこらは案の定、分かりやすい高級感が醸し出されたところでした。
見たこともないような、けれども考えることの必要がない、一目で高価だと分かる、奇抜な外国製の車が、家一軒は入るであろう車庫のなかで何台も眠っているところばかりでした。
Aはそれ(同じようなものが同じように並んでいる)が目の奥に映るたびに、不思議で奇妙な気持ちになりましたが、いつまで経っても、いや、とうとうそれを理解することはできませんでした。
家の前には手入れをされた、しかし、見事にきれいなパンジーが咲いていました。
家の中からは、ビートルズの名曲が、終わりなく流れ続けていました。

また山手に向かう道の途中から、人目をはばかり、避けるようにして逸れて続く細いみちがあり、さらに奥まったところの地域には、いやみのない空気感が、あたり一面に漂っていました。
それは、単調な高級感とはまた違った品のよい住宅がひっそりと姿形を忍ばせていて、ゆえに静寂だけではない、なにやら特有の遠慮深さが声をあげずに一帯を主張していたからなのです。
このあたりの発展の詳細に関して、Aは細かなことは知りませんでしたが、どうやら大昔、明治や大正初期には鉱物資源がたくさん発掘、採掘されていたらしく、鉄やら銅、天然石などにより得られた、先人たちの財の恩恵にあやかって、未だ裕福な生活を続けている人がいるらしい、ところでした。
ですので、かの高級感とはまた違う、元気のない静かな優雅さが漂っていたのです。
真夏の白日、昼下がりなどは蝉のなき声だけに包まれて、いえ、気候のよい暖かな空気のときですらほとんど人影の見当たらないところでした。
もしかしたら本当にだれひとり住んでいなかったのかも知れません。
名前の知らない花々が、所かしこに、華々しく咲き乱れていました。

またさらに、これらのあたりとは正反対の方角に、そこは駅から徒歩で10分も歩かないところでした。
がっしりとした瓦の乗っかった背の高い土壁が、敷地全体をぐるりと取り囲み、それはたいそうな武家屋敷があって、ですが当時ですらそこにはもうだれの姿もありませんでした。
本当なのかそうでないのか、もう調べる余地もありませんが、明治よりも遡ったころ、ある藩主が建てたようだと、過去のうわさでした。
Aは子供の時分には、その幽霊屋敷までやってきては勝手に忍びこんで、ひとりでよく邸内を物色したりしました。
邸内は、ひっそりとした膜、ひんやりとした層に覆われており、そこを構成するありとあらゆる細部までの、すべての秒針は、止まっているようでした。
けれども、それと同時に、息をころした鼓動に見られている、そんな気配をも感じていました。
屋敷のなかには大きな池があって、朽ちて傾いた木々が池の端に、とどめのように突き刺さっているのです。
Aはこの邸内に入ると、必ずや、池をぼんやりと長い間ながめていました。
それはAにとってかけがえのない和みでした。
水と水草と夏の生ぬるい水温が混ざり合い、癒しだけの匂いがしていました。
牛蛙が低い音を立てて唸って、高速で池の表面に伝わりました。
水面には波動で、泡の紋様が白く立ちました。
そしてすぐにまたもとの世界が訪れます。
水面は光沢のある絹のようになりました。
池にはアメンボやおたまじゃくし、黒メダカや日本ザリガニがたくさん住んでいました。
Aは水底になにかいないかと目を凝らしました。
すると水面に映るAの顔がそこにはありました。
いきいき輝いた顔と目がそこにはありました。

いっしゅん顔を上げると、そこは影も形もなくなって、ほんの少しの面影すら見つからず、つまらない面面と、つまらない住宅が延々と並んでいました。
いつの間にか、あの夏は過ぎていたのです。
どこへ行ってしまったのか、どこへ消えてしまったのか、いまだに分かりません。

今はすっかり、すがたかたちを変えてしまった山手のあたりも当時はまだまだ手付かずで、まばらな住宅、広い原っぱや山道もあって、荒れ地には雑草がゆく手をさえぎり、巨木がシンボルみたいに日常を形取って、そびえていました。
舗装されていない土道や砂利もいたるところにありました。
雨が降れば、くつは泥だらけになりました。
ある夕刻、首輪のついていない母犬と彼女を追いかける3匹の仔犬がAのまえに現れました。
母犬はAの目を数秒だけ凝視し警戒をしましたが、次の瞬間にはまるでAなどこの世に存在していないかのような無関心と無関係の佇まいになって、気配を消しながら、Aの真横を黙って通りすぎました。 
Aは母犬の方に振り返りましたが、母犬がAを振り返ることはありませんでした。
母犬と仔犬たちは遠くを見つめて、さらにさらにまっすぐ上の方へ向かって行きました。
たしかにそこでそのとき、彼女たちは生きていました。
Aが母犬の姿を見たのはこのときが最期でした。
同じような、見て見ぬふりをしなければならない光景がそこら中に、日常的に溢れていたのです。
それは「むなしさ」そのものでした。
無論いうまでもなくAは無力でしたので、なす術など持っていませんでした。
Aにとって、Aにとっても、悲劇だったのは、彼女たちの「ねがい」に想いを発することのできる大人たちはどこにも見当たらず、見つけることも叶わなかったことでした。

知らないうちに、こっそりと回収員がやってきました。
回収員は子犬の首根っこを掴んで、トラックの荷台に投げ込もうとしました。
けれども回収員は、すぐにうちの者の冷たい視線を感じて、荷台に仔犬を普通に置きました。
子犬は、冷たいうちの者に向かって尾を振っていました。
なぜなら実は、子犬は何もかもを察知し、見通して、さらに許していたからなのです。
その直後、何もかもを閉じるように、乾いた涙の音がしたやいなやトラックはすぐに見えなくなりました。
家の中からは、太陽と戦慄が流れていました。
Aはいよいよ恐ろしくなって、駆け足で、すぐに全速力になって、走れなくなるまで、死ぬくらい必死に逃げました。

どこか向こうの方から、子供の帰宅を促す母親の声も聞こえていました。
「もうすぐごはんやでえ」

さて、Aの住む家はこれらの地域からずっと山の方に向かって登っていかなければならず、峠のすぐ手前の辺鄙なところにありました。
そこは周りの家々もごく庶民的なところでした。
金持ちでも貧しくもない「普通」と言う言葉が、ぴったりと当てはまる、それ以外に浮かばない、そんなありふれた場所でした。
Aの父親は教え人でしたので、よほど裕福な筈だと見られましたが、母親はパート勤務で、兄と妹もいましたので、実際は余裕など何もありませんでした。
楽しそうなバカンスの出発、楽しかったであろう帰省、そのようなものをテレビで眺める、そのようなことの多かった家でしたが、目を閉じてみれば、瞼の裏からたくさんの思い出が、つい先ほどの出来事のようにやってきました。
父親は泳げない人でしたが、とにかく海と花火と貝殻が大好きでした。

Aが日々利用している最寄り駅は東口と西口に有人の改札があって、踏切を渡ったすぐのところにもうひとつ無人の改札口がありました。
Aは常々に無人の改札を利用していました。
Aがまだ小学生であったころには、駅前のほんの僅かの周辺には釣り銭ざるの吊り下がった果物屋や八百屋、豆腐屋、精肉店、特有の香りのする文具店、駄菓子を扱う小さな商店、古ぼけた煙たい喫茶、赤青の散髪屋、集会所、ピアノ教室、ハーモニカ教室、計算教室、そしてびっしりとすき間なく、ランダムに詰め込まれた数坪ほどの本屋がありました。
Aはその本屋には幾度となく、無一文にもかかわらず暇をつぶしに入りました。
ぐるりと棚一面を見わたしてそして満足して出ていくのです。
店主はいつもひとことも何も言いませんでした。

駅の外れに交番がちょこんとありました。
自家用車のようなパトカーが、いつも行儀良く、動かず、止まってありました。
サイレンなどは一度も聞いたことはありません。
わるい人たちは、どこかへ隠れていました。
よわい人たちも、どこかへ隠れていました。
きっと、いまも、どこかに隠れています。
目を光らして、探しているさ中なのです。

流れゆく空間、流れゆく時間、流れゆく日常、流れゆく風景、流れゆく空気、流れゆく人びと、流れゆく心模様、流れゆく記憶、流れゆく祈り、流れゆくいのちさえ、心地がよいのか、わるいのか、どちらでもないのか、よく分からない過去がそこにあったのです。 

気がつかないうちに大切なものをどこかへ忘れてしまっていました。
Aがそれに気が付いたのは、もう、ずっとずっと先のことでした。
あわてて探しに行きましたが、やっぱりそこにはありませんでした。


Aは無人の改札機に定期券をかざし、さえぎるものもなく、雨風の日には吹きさらしになる外通路を歩きながら、ちらりとホーム上の時計を見ました。
針はきっちり7時15分を指していました。
そして階段をくだり、地下通路を通り、再び上りきると、くるりと向きを変えて待合室に向かい、腰をかけました。
離れていない隣の駅は早くに高架になり、周辺も開発されて賑わっていたのですが、この駅はいつまでも手入れをされることはなく、今も昔もほとんど活気も外観も変わらない様子でした。
待合室も例外ではなく、時間の経過でこうなった、としか思いようのない、汚らしいクリーム色の外装で、椅子だけは数年前に木製から金属に代わったものの、目新しさは微塵もありませんでした。
数人も入れば窮屈で心地のよくないハコでした。
床は原型をとどめないほどに黒ずんで無数のひび割れが、上下左右縦横斜めに走っており、なんの染みだか分からないようなものがあちこちに散らばってありましたが、そんなものを気に留めるものなどありませんでした。

待合室にはだれもいませんでした。
だれもいないと言うだけで、今日はラッキーな日だとAは楽観しました。
けれどあと数分もすれば、まるで何かと何かが、密かに申し合わせをしたかのように、違いなく、狂いなく、車両はホームにやってくるのです。
そして何の疑いも躊躇もなく乗りこむのです。

それにしても、今日はいったい何回目の通いなのだろう・・・
はたまた今日は産まれ落ちてから何日目なのだろうか・・・
そのとき、ふたりはどんな表情だったのだろう・・・
安心した笑顔だったのだろうか、どこか不安な笑みだったのだろうか・・・

初めて見つめた青空が、どんな青だったかを思い出そうと目を閉じて集中してみたけれど、やっぱりそれは不可能なことでした。
そんな取りとめのない、現状を満足できていないものだけが抱くであろう思いが脳裏を巡りました。
一方でAは、このように毎日毎日を同じように繰り返すことができている、そのことを何よりも感謝していました。
そしてその思いの源には、それらは常に犠牲の上にのみ成り立つことの出来る、命を頂戴しなくては決して繰り返すことはできないのだという、揺るぎようのない有り難さとして、Aの心に深く突きつけていたのです。
「水と塩を除いたら、すべては呼吸をして生きていたから」
いつだったか、ビデオテープみたいに巻き戻して再生すれば、そうだったんだよといった父親の声が鮮明によみがえりました。
生きているだけでよいだとか、丸儲けだとか、たくさん食べてえらい、みたいな声を聞くたびに、いえ、状況にもよるのでしょうけれど、けれども、やっぱり、くっきりとしたかたちの違和と困惑が入り混じった歪んだ気持ちになりました。

Aは親と同居の単身者で、いわゆる世間からみて、この上もなくお気楽な身分だと思われていました。
本当のところは、突如として押し寄せた「生きにくさ」の束が重なり合って波を成し、それらが引くことがなかった故に、そうせざるを得なかったのですが、やはり心底では誰かを本気で好きになったり、なられたり、一緒に暮らしてみたり、何かが実って結婚を決意したり、愛したり愛されたりして子どもが授かったり、子育てをしたり、子どもの成長をよろこんだり、道草をしたり、いろんな計画を立てたり話したり、言い争いをしたり、共に、そんな全ての喜怒哀楽が何よりも羨ましかったのです。
Aの心の中は決して捻くれてなどはいませんでしたが、ふいにみぞおちから上がってくる、どんよりとした空しく寂しい情に包まれていました。
打ち寄せては引いていく、際限なく繰り広げられるしぶきやうねりを止めることは不可能ですし、どうやってもその波に乗ることも抗うこともできなかったのです。
とうとう凪は訪れなかったのです。
ただただ実体の定まらない、空虚な何かに必死につかまって、長い間、踏みとどまっていました。
そしてAは、なんとか生きていたのです。
少しでも気を許し抜けば、はらはらと感情の糸は簡単にほどけて、散らばって、見失って、いつどうなるか分からない、後戻りできなくなってしまいそうでした。
Aは運命や前世という言葉が好きではなかったですし、境遇を何かに選ばれた、任された、託されたのだと思い込むようにしましたが、何故か、それらもたびたび心を曇らせたのです。
生まれてきた証しやよろこびを手にいれたいという思いから試行錯誤してきましたが、それらは常に、努力とか必死さとか情熱とか優しさとかではない、精神性でも人間性でも得られない、初めから持って生まれた確かなものが必要なのだと分かったとき、Aの心は陰を纏い、ひとつの音も立てずに激しく弾けたのです。
ひとつの困難があるばかりに、ほかの何もかもがうまくいきませんでした。
端的に言えばAの半生は倦んでいたのです。
もはやコントロールすることに果てていました。
さらには、Aはもともと強い人間ではありませんでした。
ただ、唯一の存在証明である仕事だけは運が良く、複雑で難解なものでは決してありませんでしたし、それなりにみのりもありましたし、幾分かは気を使っていた甲斐もあって、ハブられたり、キレられたりすることもなく、丸、三角、四角のなか、人間関係は良好だと本人的にはそう感じていました。

この朝もAは仕事に行きたくないとか、どこかに逃避したいとか、何もかもが消えてしまえばよいのにとか、そのような想いではありませんでした。が、突如の故障や不具合で、又、災難や人身なんかで、いちにちが始まらなければよいのにと、不謹慎にもそう思ったのです。
さらには次第に得体のしれない、いつか観た映画のHeroin中毒者のように、沈むのみの感情に支配されていきました。
それはまるで失恋をした直後に襲ってくる、ポジティブというようなもの全てが消滅してしまったような、心の底の、また底に黒の粒子が張りついて、取れなくなって、息を吸っても吸っても、自然に吸えないような、みぞおちから同円心に拡がる膨満、圧迫、緊張、そんな独特の鈍く重だるい息苦しさを覚え始めていたのです。

「まもなく●●行きが到着します」
「黄色い点字ブロックの内側にお並びください」
知らぬうちに時間は経ち、幾度と耳にした黒く滲んだ灰色のフレーズが、覇気覇気と元気よく聞こえてきました。
Aはゆっくりと顔を右に向けました。
すごく遠くの方に車両の影が見えたような気がしました。
Aは短いため息を一回吐きだすと、腰を上げてホームに整列しました。
ホームをちらりと見わたしましたが、ひとりの子ども以外に活きのある顔は見当たりませんでした。
小さな画面を見つめるひとがいるだけでした。
指先だけが何かをつついて、滑稽に踊っていました。
Aも含め、皆、まるで表情のない能面のように見えました。
皆、あの一帯のように静止していました。

Aはふたたび前方に顔を向けて、ぼんやりと電車の到着をただ待ちました。
いつのまにか先ほどの無口な曇天は、打って変わって消え去っていて、青々とした陽気な空色になっていました。

ん?
ほんの数秒が経ったとき、東の遥か上空に何かが動いているのをふと目の端に捉えました。
Aは反射的に目を閉じてすぐに目を見開きました。
それはすこぶる青空のなか、天高く上空を左方向に羽ばたく2翼の渡り鳥でした。
夫婦なのか、恋人なのか、友達なのか、道連れなのかは見当もつきませんでしたが、並走する翼の信頼関係は際立って見えました。
Aの立つホームと渡り鳥の間にはたしかに距離はありました。
けれどそんなこと以上に、同じ時代を生きて、同じ時間、同じ場所であるにも関わらず、一生追いつくことのできない、生の次元が、決定的に違うのだと、胸の中には深いやるせなさが押し寄せました。
そしてまたたく沁みわたり広がり始めたのです。
説明できない羨ましさと、どうすることもできない「今」が相合わさってAは落胆しました。

さらに感傷的になったAの目から涙がるいるいと溢れて落ちてきました。
次から次へと涙は溢れ続け、不思議なことに自然に止まることはありませんでした。
まるで身体の水分が全て泪となって、それが湧いてくるような感じだったのです。
さらにはにわかに信じられないことなのですが、次々と溢れる泪は、Aの身体中にピッタリと貼り付いて、きれいなきれいな「すいしょく」のベールをまとい始めました。
その色味はどのような言葉でも決して言い表わすことのできない美しさでしたが、しいていえば、それは暑さも寒さもない端境期、澄み渡った空気のなか、山頂から見上げた空色のような、濃いのか薄いのかさえよく分からない、わずかの隙間も白さもない、整合されつくした「みずいろ」に近いものでした。
さらに、水色のベールはみるみるうちに膨れ上がりながら変色し、光沢にきらめく淡いエメラルドの羽になりました。
その羽は色のはかなさや透明感からは想像できないような頑丈さで、さらには筋肉質なものでありました。
Aはものの数十秒で自身の身体に起きた変化に心底おどろきましたが、意外にも恐怖心や不安感はありませんでした。
隣りに整列したおばあさんがAにちらりと視線を移しましたが、すぐに前に向き直しました。
Aは自身の身に舞い降りた奇跡に緊張しながらも、おそるおそる腕を平行に保ち、ゆっくりと数回上下に軽く動かしてみました。
するとAの身体は地面からフワリと浮いたのです。
次にAは腕を垂直にそろりと下ろしました。
するとAの身体は地面に静かに着地したのです。
Aは同じ動作を幾度か繰り返しました。
同時にAの心のなかでは、この数十年の記憶が一瞬で凝縮されて走馬灯がよぎりました。
そしてそれはいくつもの寂しさを去来させましたが、Aの決意は何より早く、固かったのです。
そう、Aは地上にさよならをして2翼の渡り鳥に追いつく決心をしたのです。
ホーム上からは、ほどなく到着する旨の声が再び流れていましたが、それらしきものは見えていませんでした。
Aはもう二度と地上の生活に戻れないことは、うすうす分かっていましたが、何かに導かれるように、手に持っていたカバンを空高くほうり投げて、勢いよく、思いっきり羽ばたきました。
カバンは宙を舞い、きれいな放物線を描きながらも、すぐさまホームにバウンドしレールの片隅にもたれかかるように哀しく落ちました。
線路には財布から飛び出した小銭やカード、定期券、ポケットティッシュ、お気に入りの文庫本、新聞の切り抜き、メモ帳、小さなお菓子の袋、くすり、スマートフォンさらには通帳、そしてAの抜け殻が、あらゆるものがあらゆる方向に好き勝手に規則なく、無秩序に散乱しました。

ヒューヒューヒュー シュッシュッシュッシュッ
反してAの身体から飛び出した「新しいA」は、鳥の姿に生まれかわり、凛として、みるみる上空に舞い上がったのです。
Aは地上を振りかえりませんでした。
前だけを見ていたのです。
先だけを見ていたのです。
母犬のようでした。
Aと2翼の距離は徐々に確実に縮まっていきました。
さらに追いつこうと、追いつきたいと、一心に不乱に懸命に羽ばたかせました。
バタバタ バタ バタバタバタ バタバタ 
そしてまもなく・・・
つい先ほどまで色んな意味であんなにも深く遠くに感じていた渡り鳥に追いつくことが叶ったのです。
うれしさともよろこびともとれる、いくえにも重なり合ったような、いえ、やはり、ほっとした気持ちになりました。
渡り鳥は地上から見たときは同じように見えたのですが、大きさも色合いも肌感も年齢も、あとから分かったのですが、実際は目の輝きさえも、形作るすべてのパーツの、あらゆるものが微妙に少しずつ違っていたのです。
そして背後から、おそるおそる慎重に謙虚に声をかけました。
「あの・・・旅の途中にスミマセン」
2翼の渡り鳥はすぐに上空でぴたりと停止し、Aの方へゆっくりと振り向きました。
こちらを向いた4つのまなこと向き合った瞬間に、思わず叫び出しそうになりました。
いや、勝手に叫んでしまっていたのです。
その姿かたちはまぎれもない、亡き父と祖母でした。
「ああ!お父さん!おばあちゃん!僕ですよ!僕ですよ!久しぶりです!僕ですよ!こんなことってあるんですね!」
大声で叫んでいました。
しかし、父鳥と祖母鳥はAの顔を見ても、声を聞いても、キョトンとした顔つきでまるで知らないといった様子でした。
「・・・お父さん、おばあちゃん、ひょっとして・・・僕のこと忘れてしまったのですか」
再び声を上げましたが、反応は全く変わりませんでした。
Aは、自分のことを憶えていないことの切なさや寂しさ、虚しさと悲しみがごちゃ混ぜになって、中にじわじわと染み込んでいきました。
つい先ほどまでの安心感は一気に頼りなくなって、Aに鈍く刺さっていきました。

どのくらい放心していたのか定かではなかったですが、Aは我にかえりました。
全身を振り絞り、意を決し、むりに開き直ったのです。
しかしやはり当然にぎこちのない口調になりました。
「一緒に・・・お供させて・・・もらえませんか・・・先ほど・・・地上の世界と・・・別れてきた・・・Aといいます」

「地上の世界で上手く生きれないから、こちらにきたのですか」
父鳥と祖母鳥は顔を見合わせたあと、Aの顔へ視線を移し、情のない錆びれた声でぽつりと呟きました。
Aは何もかもを見透かされている気がして動揺し、焦り出しました。
さらには本能的に何かしらを左右する大事な場面だと小刻みに震えてきました。
冷静な感じを保たねばと強く意識したのですが、そうすると余計に自然と不自然になりました。

なんとかかろうじて装うことができました。
けれども「はい、そうです」と答えるだけで精一杯でした。
それからAがぎりぎりの平常心に近づくまでに、どのくらいの時間が経ったのかはっきりと分かりません。
何時間も経過していたような気もしますし、数分、もしかしたら数秒だったかも知れません。
父鳥と祖母鳥は無言で待ってくれていました。

「地上の世界はそれはそれはつまらない世界なのです」
「だれもかもが、合理的に科学的にを、いちに優先し、生きがいに、生きて、います・・・」
「損か得か、そればかり執着しながら・・・」
「必死に、計算高く、ずる賢く、騙しあって・・・」
「結局は自分や大切な人の人生さえ上手く逃げきれれば良いと思っているだけなのです」
「目的や結果ばかりで大事を見ようとしないものばかりです」
「忘己利他などの精神を持っているのは、ほんのごく一握りの聖人だけなのです」
「それに世界中、あらゆる種類の差別や偏見で溢れかえっています」
「それらはもうずっとずっと何も変わらなくて、なくならないのです」
「醜い思いこみ、捉えかた、感じかた、考えかた、そんなのばっかなのです」
「あまりにも美しさの少なすぎる世界なのです」
「もう地上で暮らしたくも未練もないのです」

父鳥は先程よりさらにか細い掠れた声になりました。
「そうだとしたら君は大きな勘違いをしていますよ」
「地上で上手く生きれないものが、こちらで上手く生きることはできません」

「なぜですか!」
Aは父鳥の言う意味が呑み込めずに、思わず語尾を少しだけつよめてしまいました。
「それはこちらの世界も地上と質は違えど、結局は欲と欲望によって成り立っているのです」
「言っていることが分かりますか」
「『生きたい』という太く強い欲望がなければ、ここでは絶対に生き残ることはできないのです」
「地上もそうではないのですか」
「事実、あなたを見れば、残念ながら答えは出ていますよ」
「あなたのようなものばかりだとが全ての生命が絶たれてしまうのです」
「この世は欲望によって満たされる欲の数々で繁栄してきたし、そして今があるのです」
父鳥は段々と強く、いら立たしい口調になってきました。
「それにこちらでは何一つの補償も存在しないのです」
「全てを自分自身で判断しなくてはなりません」
「それをほんの少しでも誤れば、たちまち命など・・・」
「明日生きている補償もありませんし、いえば5分後だって分からないのです」
「生き残るためには、地上よりも遥かに強い精神力と生命力を持ち続けなければならないのです」
「あなたが思うほどこちらの世界は生易しくないのです」
「あなたの想像と正反対の世界なのです」

Aは再び心細くなり眼球が動揺し、うろたえた表情になっていました。
それを見た父鳥と祖母鳥はAが地上に戻ろうと考え始めていることを簡単に察知したのです。
「やっぱりそうですか・・・」
「私たちの翔んでいる姿が自由で優雅に見えたのですね」
「大した覚悟も信念もなく目先のイメージだけでこちらに来られたのですね」
「私たちからすれば、地上の世界が羨ましくてなりません」
「自らこちらの世界に来るなんて・・・」
「本当に残念です」
何とも言えない途切れそうな声質で、深く浅く息をはきました。

父鳥はAの目をしっかりと凝視しました。
そして、落ち着き払った口調で言いました。
「残念ですけれど、あなたはもう地上には戻れません」
その言葉とほぼ同時でした。
遠くの地上から、けたたましい音量の警告音と金属が激しく擦れ合う甲高く乾いたブレーキ音が空一面に響き渡りました。
さらにはたくさんの悲鳴にも似たような声がひとつの塊となってAの耳に貼りついたのです。
Aは父鳥の言葉を悟り理解しました。
父鳥はいつの間にか静かに語るような口調になっていました。
「私たちに付いてきたければ付いてきてよいですよ」
「ただし・・・私たちは見ての通り「わたり鳥」です」
「あなたの小さな想像をゆうに超える、長い道のりを翔びます」
「翼が痛いだの疲れただの、嘆きや喚きは聞きません」
「あと、当然ですけど地上で価値のあったものや考えは何ひとつこちらでは意味を持ちません」
「加工されたものなど存在しませんよ」
「持ち物も持てませんよ」
「娯楽もありませんよ」
と言いました。
さらには「命の補償もできません、それでもよければ」と重ねて言い放ちました。

「どこまで翔ぶのでしょうか」
「そんなこと分かりません、愚問ですよ、行き着いたところ、その場所までです」
「鋭い感覚と感性だけが最もの頼りなのです」
「まあ・・・あなたはきれいな血と素直さだけは持っていそうですが・・・」
父鳥と祖母鳥の空気が少しゆるみました。

「分かりました、一緒にお供させてください」
「よろしくお願いします」
AはAなりに覚悟を決めたのです。

天上で生きていく、ごく一部のすべを、父鳥と祖母鳥から簡単に教わりました。
細かなルールやマナーなど何ひとつないこと。
何もかも自分自身で考え、決定、行動すること。
運、選択、五感、警戒、欲、六感、取捨、運命。

「さあ、先を急ごう」
「こんなところで、ちまちま油を売ってる場合じゃないからね」  
「ぼやぼやしていたら、すぐに日が暮れてしまうよ」
「えっ、まだ日が明けて間なしですよ」
「そんなもんなんだよ、今にわかるよ」
「さあ、行くよ、おぼっちゃん、準備はいいかい?」
「はい、大丈夫です」
「私たちが先と後ろを翔ぶから、その間に入って飛びなさい」 
「はい!ありがとうございます!」
「これからは、ごきげんで行くんですよ」

不思議なことにAの心は生きていきたいという欲望が湧き始めていました。


「バタバタバタバタ バタバタバタバタ」
「ハアハアハアハアハアハア」

「ちょっと休憩しよう、おぼっちゃん」
「あっ、ハイ、ハアハアハアハア」
「若いのに情けないなあ、もうバテたのかい?」
「まだほとんど経ってないよ」
「羽が痛くって」
「そりゃそうだよ」
「そんなにバタバタと力を入れて動かしてはダメだよ」
「まるで捕まった時のような動かし方だったよ」
「音も立つし、私たちがいなければ、すぐに捕らえられてしまうよ」
「さっきのように、短い距離なら、それで良いかも知れないけど・・・」
「すごく大きくて立派な翼だから、上手く扱えるようになるには、少し時間が必要だと思うよ」
「風に身を任せるみたいに、一度だけ羽を大きくいっぱいに動かして、あとは風に乗るんだよ」
「・・・」
「地上でもそうだったろう、力を入れれば入れるだけ上手くいかないんだよ」
「・・・」

「では、そろそろ行こうか」
「すみません、もう少しだけ休憩させてください」
「足手まといなら先に行ってください」
「ふふふ、ハハハ、昔のワシとそっくりじゃないか」
「ではOKになったら、言うんだよ」

数時間かけて行き着いた先は何の変哲もない寂れた漁港でした。
港には停滞した漁船が規則正しく並んでいます。
そり立った高台に3階建の木造家屋が、器用に立ち並んでいました。
まるで写真でしか見たことのない、そんな大昔にタイムスリップしたようなところでした。
笠帽子をかぶった老人がベンチに座ってキラキラと輝く海面をぼんやりと眺めていましたが、それ以外には人影はありません。
振り返れば山肌が険しく大きく広がって、立ちはだかっています。
家族連れのカモメ達が、ワイワイとお喋りをしながら楽しそうにしています。
Aは「こんにちは」とあいさつをしましたが、カモメの子どもには聞こえていません。
Aはこの場所が、いつかの過去に来た祖母の故郷かも知れないとまもなく気づきました。

あどけなく何も考えず遊びまわれた時間の流れ。
白地図、知らない道、道なき道、ひとけのない山の中、何かの気配、覆い茂る、へばり付く石苔、シダの集合、ぬかるむ土、かき分けて進む好奇、落ち葉の匂い、秘密基地、赤土の巨穴、掘り続けたり、休んだり、登ったり、展望、屋敷の池、底なし沼、迂回する山道、無舗装、まばらな住宅、側溝、石の下に潜む沢ガニ、野ざらしの車、ハンドルの感触、剥き出しのタイヤ、ひび割れたフロントガラス、たばこの吸い殻、アブラゼミの大群、クマゼミの音量、ミンミンゼミの薄緑、夏の終りとツクツクボウシ、カマキリと楕円卵、とのさまバッタの跳躍、用水路にいた大きな亀と伸びた首と見わたす目、水面を走るアメンボ、脚の生えたオタマジャクシ、動かないウシガエル、ザリガニの脱皮、ブルーギルとブラックバスの食欲、太くて長いミミズ、水たまりのウーパールーパー、張り巡らされた蜘蛛の巣、アリ地獄に流れる砂、母犬の愛情、あとを追う仔犬たち、かけおりた急斜面、牛乳瓶、ふたの日付け、百葉箱、給食室から漂う湯気、金属製の箸、渡り廊下、螺旋状の非常階段、凧をあげたり、春までまわした駒たちの力強い回転も。
少年時代、昨日のようにも、遠い遠い、いつかのようにも、来世のようにも。
四季の移ろいに気がつかなかったのです。
Aが無意識に感じていた懐かしさの正体はこれだったのです。

それからしばらくこの地で、常に父鳥と祖母鳥と時間をともにし、徐々に心を打ちとけあえるような関係性になっていきました。
いつしか、父鳥と祖母鳥のことを「お父さん」「おばあちゃん」と呼んでいましたが、厭な顔はされませんでした。
父鳥と祖母鳥はAのことをA君と呼ぶようになりました。
最初のうちは苦労した飛翔のコツも早めにマスターできたし、何よりも糧を得る能力に長けていました。
それは、Aの羽はどんな鳥よりも強靭で頑丈であったので、それを意図もたやすく可能にしたのです。
そして可能な限り父鳥と祖母鳥の分まで捕らえました。
それはもともとの気質が穏やかで、少しだけ優しいこともあったけれど、何よりは自分のことよりも、Aのことを覚えていなかったとはいえ、地上で孝行できなかった「父」と「祖母」の分身のような父鳥や祖母鳥の嬉しそうな顔を見ることが生きがいになっていたからです。
Aの少しの優しさや親切に父鳥と祖母鳥は、いつも「ありがとう」と言ってくれました。
Aの中で父鳥と祖母鳥がますます大切な存在になっていったのです。


それから3翼は、世界200弱すべての国、名もつかぬ大地を秘境を歳月をかけて旅して生きていきました。
見渡すかぎり広がる海の水、膨大な水の塊、とどまり続ける不思議、砂漠の大熱気と砂埃、大草原の青緑茶、見えないカルパス、ぼやけるオーロラ、刺さるスコール、蜃気楼、虹の架け橋、月の満ち欠け、潮の満ち引き、眩しすぎる白、すべり落ちるシルクのような水の流線・・・絶え間なく流れるあらゆる視界。

一度も国を出たことのなかったAにとって、どこかで聞いたことのあるような言葉しか湧き上がってこなかったのですが、それらの言葉はやはり真実でした。

目を閉じて、今までに見た、いちばん素敵な、そんな風景が広がっています。

表すことのできない数々を翔び、渡りました。
同じところには決して長く留まることはありませんでした。
地上では相変わらずに繰り返されている、見ていられない愚かさも欲まみれも、悲しみも苦しみも、そこら中で絶え間なく目にしました。

「こういうものって、やっぱり言葉のかけ違えで起こることが多いよな」
「だから結局は言葉で解決するしかないよ」
「ひょっとして・・・今、思いついた・・・」
「世界中の人が同じ言語を話せれば・・・もしかしたら今よりは分かり合えて、戦争の少ない世界になるんじゃないかなあ」
「だけど・・・やっぱり・・・話し合いとかお金では解決しないのかも」
「もちろん暴力や戦争でも解決はしないけど、決着はつけてきたみたいだし」
Aはぶつぶつと頭のなかで呟きました。
でも、まあ、いいわ、もう関係ないや。

これまで一直線の道を、突き進まざるをえなかったAにとって、何もかもが夢ごこちで新鮮でした。
その土地その土地で新しく知り合った、価値のちがう仲間たちとひととき楽しく語り合ったり、ピクニックや冒険に出かけたりもしました。
暖かな季節、ぽかぽかと温もりのある気候、混じり気のない空気、青すぎる空のなか、自由自在に風を切り、風を操りました。
自身の内部から発せられるエナジーで得られる風のかたちは、バイクや車のようなもので感じるものとはわけが違ったのです。
Aは、けがれや不自然さが薄まっている感覚になりました。
もちろんたしかに薄まっていたのです。
そんな透明で清らかな気持ちで翔んでいると、もはや、何もかもを忘れてしまってもよいのではと錯覚しました。
無念、無想の境地に陥った気にもなりました。
壊れた時計みたいに時間を止めておきたかった、そんな清々しさだったのです。
そう、Aはたしかに、ここに存在していたのです。

しかし、やはり、当然、父鳥と祖母鳥の教えとおり、そんな快適な毎日ばかりではありませんでした。
むしろそのように過ごせるときなど実際は少なかったのです。
天候の変化は地上とは比べものにならない早さと目まぐるしさと凶暴性でした。
天気は一気に一転し、大雨、大嵐のなか突風に巻かれてバランスを崩し、あやうく大海原の荒波に飲まれそうになったこともありました。
猛吹雪のなかを何時間も飛び続けなければならなかったことも、月あかりだけを頼りに砂漠を進んだことも、赤道直下の灼熱に全身が渇ききったこともありました。
死を意識させられたことも度々でした。
それでも地上とは異なる「生きている」という実感を感じ始めていたのです。

けれどもある真冬の真夜中、今にも折れてしまいそうな枯れ枝に身を寄り添って、寒さと空腹に耐えながら朝の訪れを待っていたときでした。

「何でこんなにつらくて苦しいのに生きていかないといけないのですか」
Aはついにたまらず父鳥と祖母鳥に向かって弱音をはいてしまいました。
なぜだか地上を思い出しました。

父鳥と祖母鳥も寒さと空腹で震えていました。
けれども、しっかりと頼りのある口調でした。
「A君、そんなことを考えてはいけないよ、考えること自体がいけないんだ、だって生きている意味なんて世界中、いや宇宙中どこを探したって見つからないよ。
生まれてきたっていう偶然が、だれにも分からないのと同じなんだよ。
それはもう偶然にA君がA君として生まれた瞬間から決まっていたことなんだ。
仕方がないんだよ。
ありきたりだけど、どんなに辛くて散々な状況であっても、諦めじゃなく、最期まで、今を精一杯に生きていくしかないってことが・・・
たぶんこれが生まれてきた理由に近い答えだと思うよ」
と優しくAに諭しました。

すこしの間がありました。
父鳥は続けました。
「反対によく死に方についての話題が上がるんだけど、そんなものはあまり重要ではないんだよ」
「大まかに言うと、ここでは病死、他殺、事故死、老衰などの自然死の4種類の死に方しか存在しないんだ、そのいずれかで必ず死ぬんだよ、A君が生まれるずっとまえから決まっていることなんだ、地上ではもうひとつあるようだけど・・・」
とさりげなくAの顔を見ました。
そして、さらに言葉を続けます。
「結局のところ意識で生き方は変えれるけれど、死に方は選べないんだ、天に任せるしかないんだよ、全ての生命は誠実に命を全うして、きちんと死ぬために生きているんだよ」
「分かりやすくいうと・・・未来に命を繋ぐ、そのバトンを託す定めのために、生まれてきて、なぜだか今を生きているんだよ」
「A君もそうやって生まれてきたんだからね」
Aは正直あまりピンとこなかったけれど、感覚的に父鳥の考え方に少しだけ共感しました。

それからもたびたび、決して口数の多くはない父鳥と祖母鳥に、答えのない意味を言葉や姿勢で真摯に教わったのです。 
それを肌で感じ成長しました。
まるで子どものように。
まるで地上で子どもだったときのように。

誰もが同じように、父鳥と祖母鳥も時と歩幅を合わせて、さらに深く皺を重ねてゆきました。
無音の音を立てながら。
もはやスピードを上げて飛翔したり、自在に転回することも難しくなっていました。
身体も一回り小さくなってしまいました。
翻って、Aはすっかり天上の世界に慣れて、一人前の大黒柱になっていたのです。
そして何よりの一大事として、Aは偶然に大好きな相手と巡りあうことができて、ごく自然なかたちで運よく一緒になることができたのです。
父鳥と祖母鳥から電報が届きました。

「このひろい
せかいのなかで
めぐりあい
えんというなの
きせきの出逢い」

「キラキラと
かがやくきみの
よこがおが
これから先も
続きますよに」

よかったね。
おめでとう。
そう書かれていました。

Aはうれしくて仕方ありませんでした。
素直できれいな心の持ち主と結ばれたことに、胸の奥底から心躍らせていました。
表すことのできない嬉しさに心が乱され、ときめきました。
いつも仲良く手を取りながら、目を合わせて笑い合えたのです。
たびたび遠出をして、たまには言い合いなんかもありましたが、やっぱり好きであったのですぐに仲直りしました。

「君のこと好きだよ」
「もちろん知ってる」
「ばれてた?」
「うん」
「一緒にいたいんだけど」
「いいよ」
「じゃあ明日ダンスしよ」
「もちろんいいよ」
「今からでもいいよ」
「ほんとに?」
「今日は満月だし」
「ほんとだ」
「月あかりのなかっていいね」
「ところでわたしのどこが好きなの?」
「んー、なんとなく、理由なんてないよ」
「いつものところで待ってる」
「わかった、すぐ行くね」

あいにく、子どもは授からなかったけれど、波長はぴったりと寸分の違いもなく合って、大好きな相手と暮らし、生きていること、かたちの見えぬ、けれどたしかにある、充足感ともいえる不思議なオーラに包まれていたのです。
それはAにとって、生まれて初めての素敵な素敵な時間でした。
もはや父鳥と祖母鳥に細かな指摘をされることもなくなっていました。
いつの間にか、Aの心は「生きている」満足感にも恵まれ、いっぱいになっていたのです。


いつしか父鳥と祖母鳥にとって、Aの存在はなくてはならないものになっていました。
父鳥と祖母鳥と暮らし始めてすでにかなりの月日が経ちました。
ある夜、いつものように、近すぎる星空を眺めながら想いに耽っていました。
いくつかの星が地上の向こう側に向かって流れては落ちていきました。
横には優しげな顔をした宝鳥がすやすやと寝息を立てています。
その寝顔を見つめていると、Aにも睡魔がやって来ました。
寝床について宝の手にふれるやいなや、まぶたはすぐに落ちました。
「スースースー」「スースースー」
宝鳥のきれいな寝息とAの寝息が暗闇で、あい合わさって夜空に溶けました。
宇宙の一部になりました。

「トントントン」
「・・・トントントン」
ドアのノックされる音で目が開きました。
もうずいぶん前から、正確に言えば、大好きな相手と一緒になれたときから、父鳥と祖母鳥とは別の寝床で共寝するようになっていました。
それに、父鳥と祖母鳥に守られなくとも身を守る術を手に入れていました。
「A君、ちょっといいかな」
父鳥の小さな声でした。
予期せぬ訪問に目は冴えて、びっくりしたけれどすぐに返事を返しました。
今までAの方から、父鳥や祖母鳥に話しや相談に向かったことはあったけれど、父鳥からというのは初めてのことでした。
「ちょっと待ってください。今、ドアを開けますから」
いつもの変わらぬ父鳥が立っていました。
「最近なかなか眠れなくてね、起こしてしまったかな、ごめんね」
「いえ、今さっき眠りかけたところです。夜も深いので、さあ入ってください」
父鳥は遠慮しながらも、部屋のなかをサラッと一瞥したが、すぐにAに向き合いました。
いつものように他愛のないことを喋りました。
しかしAは父鳥が何か言いたいことがあって訪ねてきたのだと感じていました。
しばらくするとAと父鳥に長い沈黙が流れました。

「何か大事な用があって尋ねてこられたのではないのですか」
「そうかも知れないね」
父鳥は一瞬だけAを見て、ポツリと言ったきり、再び黙り込んでしまいました。

「私と祖母鳥のこと、目障りに感じてないかい」しばらくのち、父鳥が意を決した声を出しました。
Aは父鳥がなぜそんなことを言うのか理解できませんでした。
「私たちはもう歳を取りすぎた。A君に糧を用意してもらわなければ、どうすることもできなくなってしまった」
「それに素晴らしい相手にも巡り合えて、もっと自由に生きていきたいんじゃないかと憂いているんだよ」と静かに優しく呟きました。
となりの部屋から小さな小さな寝息が聞こえました。
まるでメロディのようでした。

「そんなことはありません」
「父鳥と祖母鳥のおかげなのです」
「こんなにも自然体で、こんなにも楽しくて、こんなにも・・・」 
「・・・生きていることって、素晴らしいことなんだって」
「それに父鳥と祖母鳥のこと、本当の父と祖母だと思っているのです」
「だからそんな悲しいこと言わないでください」
「・・・」
父鳥は、柔和な表情に変わって、目尻が少しだけ潤んでいました。
Aの目の表面には涙がいっぱいに溜まって、まるであの日の母犬のようでした。

それから、まれに、父鳥がAの部屋を訪ねてくることがありました。
その度に色々な話しをしました。
何気のないこと、大事なこと、過去のこと、これからのこと、父鳥が子どもだった頃のこと、父鳥と母鳥の出会いのこと、祖母鳥と祖父鳥の出会いのこと、あらゆることを喋り合いました。
本当の父親とこのように話せなかったことを後悔していたAにとっては、なによりうれしく、大切で、そして罪滅ぼしな時間でした。
もう、本当の父親でした。
そこには何の遜色も違いもない、そんな間柄になっていたのです。

「初めて会ったときのことを覚えているかい」
「ハイ、はっきりと覚えています」
「すごく緊張していたよね」
Aは父鳥の顔を見つめて、はにかんだ。
「あのとき、A君は地上の世界は美しさが少なすぎると嘆いていたよね」
「そう言えばそんなこと言ったような気がします」
「もう地上から離れてずいぶんと経ったので、はっきりとは憶えてないですが・・・」
父鳥は黙って頷きました。
「真面目なことばかり言って申し訳ないけど、A君にとって美しさって何だと思う?」
Aは自らが言ったこととはいえ、答えのない問いを父鳥から返されたことに戸惑ったけれど、思いつくままに話し始めました。
「美しさって2種類に分けられますよね。ひとつは目に見える美しさ。もうひとつは目に映らない美しさです」
「目に見える美しさははっきりとした輪郭があります。分かりやすいものです。いかんせん目に映らない美しさは抽象的で、ぼんやりとして輪郭を掴めないものです」
「地上では多分、目に見える美しさが重要視されていたと思うのです」
「まあ正直にいえば、僕もそれらに憧れていました。なぜなら目に見える美しさがあれば、地上では理屈ではなく、やっぱり上手く生きやすいからです。お金では手に入らないし言葉で説明できないものだからです」
「だけどやっぱり、目に見える美しさが、なぜ人生を左右するくらい重宝されるものになっていたのだろうっていう疑問は地上を離れた今でも分からないままなのです」
「成し遂げてなったわけでもないのに・・・」
「負け惜しみなんかでなく、運とか偶然とかの、たまたまで授かったものなのに・・・」
「見た目のよい遺伝子を残したいという遺伝子が、初めから脳内にインプットされているのかも知れませんね・・・」

「もしかしらそんなことないかもしれないよ」
「A君の思い過ごしかもしれないよ」
「きっと」
父鳥はそれだけ言いました。

「ではもうひとつA君に聞きたいのだけど、例えば目に映らない美しさってどんなものがあったの」
Aは地上で暮らしていた頃のことを思い出そうと目を閉じて、顔を宙に向けていました。
「そうですねえ。僕が地上で美しいと感じていたものは・・・」
「ちょっとセンチメンタルかも知りませんけど・・・」
「例えば、大好きな人に緊張しながら、戸惑いながらも一生懸命に想いを伝えようとしている姿とか・・・」
あとは、
「記憶」とか
「素直なこころ」とか
「産まれたてのこころ」とか
「何も知らないこころ」とか  
「よだかのやさしさ」とか
「かまねこの涙」とか
「コンプレックス」とか

「なぜコンプレックスが美しいの?」
「やっぱりそれは・・・それらをつよく持っているほど、優しくなれるからです」
「透明ってことかな。でも、本当のところを言うとよく分からなかったのです」
「目に見える美しさがなかったから、目に映らない美しさに答えを求めて、惹かれて、ごまかしていただけだったのかもしれません」
「生きづらくてそれこそが救いだと疑わず、思い込んでいたんだと思います」
「けれどこちらの世界に来てからは、そういうことを考えることを忘れていました」
「きっとこれが・・・そういうことを忘れてしまっているってこと自体の心の在り方が、本当の美しさってことだなって、今、そう思ったところです」
Aはそこで話すのを止めて、父鳥の顔を見ました。
「ワシもそう思う。同じだよ」
父鳥は、それ以上なにも言わず、ほんの小さく頷きました。
それが父鳥と交わした最後の会話でした。


季節外れに冷たく凍える、11月初旬の早朝。
蠢く蠢く蠢く蠢く蠢く蠢く蠢く蠢く蠢く。

珍しく宝と夜遅くまでこれからについて語り合っていたこともあり、まだまだ眠たくて起きるのがつらかったけれど、いつものように朝の糧を求めて、父鳥と祖母鳥、宝を残して捕りに出かけた。
皆の分を軽々と調達できたAはあとは自分の分だけだなと辺りをキョロキョロと見渡した。
Aはこれまでも何度か大きな猛禽に襲われて命を失いかけたこともあったし、命の取り合いみたいな危ない目にもあったけれど、なんとか運良く逃れてきた。
父鳥に助けられたこともあったし、真剣な眼差しで叱咤されたこともあった。
そのようなこともあり、狩の際には一倍に気を張りつめていた。

しかしそれは思いもよらぬ悲劇であった。
突然、乾いた音がしてAは自分の身体の一部に何かが当たったような違和感に襲われた。
さらにはそこから耐えがたい痛みが走りだした。
Aは自分の身に何が降りかかってきたのか理解できぬうち、全身の力が抜け出した。
すぐにAは全力を振り絞って羽ばたかなくては平衡を保てなくなった。
痛みは鈍痛に変わっていた。

「まずい、やばい、どうしよう」
一瞬、いつかの父鳥と祖母鳥の忠告が頭のなかを瞬時によぎったけれど、何が何だか分からぬうちに、すぐに感情の糸は切れてしまい、恐怖心のみに変わってしまった。
さらに空中を懸命に羽ばたきながら停止しているAの羽の根元に再び何かが貫通した。
その瞬間、Aは羽を広がることも動かすこともできなくなり、目がぼやけ始めた。
Aは何一つこの状況から抗えずに空中を高速でぐるぐると旋回しながら垂直に落下していった。
消えゆく意識のなかで僅かにAのあたまのなかを駆け巡ったのは、大好きだった宝の顔と地上での母親の姿だった。
もはや言葉として発することはできなかったけれど、たしかに「ありがとう」という想いが、最期にAの心から飛び出して、それがAをも優しく包み込んだ。

先ほどAが狩をした命も地面に落下していった。
「ごめんなさい、あなたの命が無駄になってしまったよ、ごめんなさい」

そしてゴツゴツと硬く、尖った大きな岩石に全身を叩きつけられた。
岩石から転げ落ちたAはすぐに気を失った。
Aの感情はそこで途切れた。
Aの身体は地面に横たわり、見るも無残な哀れな姿になった。
傍らには真っ二つに折れ曲がり土埃にまみれた水色の羽が頼りなく落ちていた。
その羽には、み粒の涙にも似た水滴が付いていた。

「なんか変わった色した羽やなあ」
「きれいな羽やけど・・・」
「あんまり味はパッとしなさそうやわ」
「ハッハッハッ」
意味深な意味浅な言葉が空を舞った。
Aは羽を雑に持ち上げられて陽光に透かされた。
そして勢いよく藁の籠に投げ込まれた。
Aは果てしない静寂を放つ永遠のなかに消えた。


どのくらいの時が流れたのだろう、遥かはるか遠くの国に秋の終わりが迫るころ、そこは誰ひとりとして立ち入れるものなどいない、全方位に鬱蒼と広がり続ける密林のなか、あるひとつの老巨木に突き出した、太く長い枝に3翼の鳥が止まっていた。
3翼の鳥は、枝の上から見える一枚のひときわ大きな葉を穏やかな顔でじっと見つめていた。
よく見ると、その大きな葉の葉脈はあの懐かしい顔と瓜二つであった。
それは、Aそのものであった。
そしてその紋様は、かなたから発せられた、神々しく輝く斜陽のオレンジ色に、いつまでもいつまでも美しく照らされ続けていた。
まもなく、み粒の雫が大きな葉のうえを光りながら滑っていった。


ふとわれにかえったAの瞼からはすっかりと涙は消え去って、頬にはひとすじの跡がついていました。
いつのまにか、いつもどおりの表情をしたマルーン色の車両がホームに流れついて、目の前に映し出されていました。
Aは開いたドアに向かいながら、時間ともいえないような僅かの間、はたと上空を見上げました。
天空、空高く、点とも線とも影とも見える翼は、いつの間にかみっつになって、西の彼方へ向かっていました。
気のせいかも知れないけれど、まっすぐに不乱に翔んでいた翼のみっつが、一瞬、動きをとめ、こちらをちらりと見たような気がしました。

それから、Aは真っ直ぐに射し放つ「逆光」を受けながら、ゆっくりとした足取りで、まばゆく光るその向こうに吸い込まれていきました。
そこには至るところに夢のかけらが落ちていました。
誠実なものであれば、誰もが、かけらを集めることのできる、新しい世界が広がりはじめていたのです。
Aのすべては晴れわたり、そしてすべてを忘れました。
天空、空高く、点とも線とも影とも見える3つの翼は、西の彼方へ消えていました。
3つの翼はそれからしばらく翔びつづけました。
そこにも美しい世界が一面に広がっています。
ひとつの星がひときわ爛々ときらめき始めようと準備していました。


「〇〇県動物愛護センターです」
「あっ、お忙しいところすみません、わたくし△△市に住んでいますAというものです、少しお伺いしたいことがありお電話させていただきました」
「はい、どういったご用件ですか」
「えー、もうずいぶんと昔のことなのですが、私が小学生だった頃なのですが、昭和の終わり頃です、その当時、愛護センターに引き取られた犬は何処で、えー・・・処分されたのでしょうか」
「当時のことを知っている方がいらっしゃいましたら教えて頂けませんか」
「ちょっと待ってください」

「はい、電話代わりました、Bと言います」
「お忙しいところすみません、わたし△△市に住んでいますAと言います」
「わたしが小学生の頃、昭和の終わり頃です、あの当時、〇〇県の愛護センターに引き取られた犬は●●市の管理センターで処分されていたとの記載を見たのですが本当でしょうか」
「はい、そうです」
「・・・そうですか」
「ずいぶんと遠いところにあったのですね」
「管理センターのページを見たのですが、毎年9月の第3週土曜に慰霊祭をしていると書いてありました、関係者のみで開催と記載してありましたが、事情があって、・・・今年の慰霊にわたしも出席させていただけませんか」

「・・・Aさんの心情は分かります、しかしそれは出来ません」
「なぜですか」
「Aさんには分からないと思いますが、管理センターには命を全うできなかった動物たちの霊魂が漂っているのです、その魂がAさんに移ってしまいます、そのお気持ちだけで充分です、どのような事情かは聞きませんが、供養は私たちがしておきますので安心してください」
「・・・分かり、ました」
「・・・よろしく、お願いします」
「・・・ありがとう、ございました」

「Aさん、だいじょぶですか、よろしいですか」

「あの・・・もうひとつだけ教えてほしいことがあります、なぜ「処分」という言葉が使われるのでしょうか、モノじゃないですし、不必要だからですか」
「逃げの言葉としか聞こえないのです」
「・・・そうですね、わたしもおかしい言葉だと感じます」
『「罪をオカシていないものを都合でコロス」のほうがよっぽど誠意があると思いますけれど』
「そうですね、わたしもそう思います」
「けれどAさん、これだけは言っておきます、私たちもこのようなことはしたくないのです、当たり前です、ですが誰かがしなくてはなりません、言葉の重みを感じながらは出来ないのです、ご理解ください」
「・・・分かりました、申し訳ありませんでした」
Aは公衆電話の受話器をおいた。


乗り換えのために下車したAは、改札からすぐのところに祀っているお地蔵さまに向かった。
Aはもともと信仰を持っていなかったけれど、産まれて生きて死ぬの定めは、目には見えない何かしらの力によって左右されているのだと考えていた。
地球上、世界中、日本中、過去現在未来永劫、いつの時代も、どんな命だって、上手く生きていけるもの、上手く生きていけないものがいる。
いったい何によって左右されるのだろう。
才能だろうか、美貌だろうか、健康だろうか、運だろうか、努力だろうか、気合いだろうか、気持ちの持ちようだろうか、神さまの仕業だろうか、すべてDNAだろうか、生まれた瞬間にすでに決まっていたのだろうか。
産まれて生きて死ぬの意味が分からなさすぎて、だれもそんなことさらさら気にもしないってことも・・・

お地蔵さまは人びとが行き交うなかに祀ってあるから、Aはお地蔵さまから、ほんの少しだけはなれた真横に立った。
本当はお地蔵さまの正面に立っていたいのだけれど、Aにはそれができなかった。
お地蔵さまの周りには、誰かによって新鮮な花が手向けられいて、けれどいつだって朝を急ぐ人に足を止めるものはいなかった。
手も合わせずに心のなかで願いかける。
「今日一日が上手くいきますように・・・」
「お地蔵さまにとってもよい一日になりますように・・・」

ばんやりして少しだけ放心していると、こちらに向かって走ってくる気配を感じた。
顔を向けるとたしかに小さな女の子が、そのあとを若いお母さんが、名前を呼びながら女の子を追ってお地蔵さまに向かってきた。
お地蔵の前までやってきた女の子は、すぐに向きを変えて母親に抱きついて、抱っこをされて、お地蔵さまの真っ正面に立った。
そして祀られている観音開きの戸を無邪気に開いた。
扉は軋みながら古い音を立てて左右に開いた。
その様子をAも見ていた。

わっ、えっ、という隙なく、フワッとなかから蒼の靄が勢いよく飛び出してきて、女の子と母親、Aをもシャボン玉のように瞬時に包み込んだ。
女の子と母親とAは思わずお互いの顔を見わたした。
「えっ、なに、なに、輝宝、いまの、見た?」
「うわっ、死ぬかと思った、びっくりしたあ!」
「ママっ、なんか青い煙がみえたよ」
「・・・いったいなんなの?」

「なんだか・・・上手く言えないですけれど・・・」
「ぜんぶがリセットされたみたいな気分がしないですか?」
「ああ、ほんとに、そうですよね、わたしも同じきもち、なんなの、このナチュラルな感覚」
「ママ、身体から不思議な香りがしてきたよ」
「宇宙みたいな香りがする」
「えっ?きほ、宇宙の香りって面白いこというわね」
「でも、きほ、それ当たってるかも」
「だってママ今、すっごく気分がいいし、きほにもなんかいいこと始まりそうだよね」
「やったあ、うれしい」
「そうねえ、だけど、今のほんと、なんだったのかしら」
「・・・たしかに・・・でも・・・たまには分からないことがあっても、いいと思いませんか」
3人はふたたび顔を見合わせた。
3人は無邪気で、くったくのない美しい顔だった。
それは、いつか見たことのある、あの顔、そのままだった。
いよいよ帰ってきたみたいだ。
Aはこれでようやく、上手く生きていけるような気がした。
Aは安堵し、その場をはなれて安穏した。
いつのまにか、あっというまに、あらゆるものは過ぎ去って、3人も例外なく、それぞれに予定通り地上をはなれた。

        【終章】
美しい星のひとつが生まれました。

気が果てることすら忘れるくらいの宇宙的な時間と空間を経て、奇跡にも、意味のある偶然にも、必然にも、Aは「あらた星」にたどり着きました。
そこはどの星よりも哀しく美しく輝いています。

向こうから、わずかに見覚えのある母犬と仔犬が歩いてきて、立ち止まりました。
Aは母犬を真っすぐ見つめました。
母犬はうっすらとやさしく微笑みました。
「あの星には選ばれなかった、おかげでようやく、この星に辿り着けました」
「あなたもそうですか」
「僕もそうだと思いますよ」
「あの星、消滅したみたいですね」
「そうなんですか」
「何か太陽に呑み込まれたんですって」
「わたしたちって運が良かったんですね」
「そうですね」
「行きついた先、同じでしたね」
母犬は、さらにやさしく微笑みました。

母犬はしかし透きとおっていて、周りの仔犬たちは、神秘的で重厚感のある、きなり色の陽炎となって「星」を大きく輝かせていました。
まわりを見れば、やはり、大小さまざま、いくつもの美しい陽炎のゆらめきがありました。

Aの目には、それはきれいな雫がいっぱいに溜まって、その表面にはあの日の池の水面がはっきりと映っていました。
そのみなもには小舟が浮かんでいて、いつまでもどこまでも進んでいました。
どこへ向かっているのでしょう、そうですね、それも、あの日のAに聞いてみましょう・・・

まもなくAも燃え始めました。
「あらた星」の寿命が尽きるまで、ゆっくり小さく小さく燃え続けました。


「おはようございます!」
「おはようございます」
「さっき思い出したんですけど」
「今年の夏、みんなでホタル、見に行こって言ってたけど、行きませんか」
「行く行く、行きましょ」
「じゃあちょっといい感じのとこ、探してみますね」
「さっすがあ!」

「美しい星」で光を灯すまで、もうすこし時間がありそうだ。
「生きている間に何を感じるか」
きれいな心の持ち主の言葉はいつだって真実だ。

ここは都市の真ん中、ビルの嵐が聳え立つ。
陣地合戦、チェスのようだ。
いつからこんな感じになったのだろうか。
気が付いたら、こうなってたんだろうな。
一番最初の日ってどんな一日だったんだろう。
一番最期の日ってどんな一日なんだろう。
ここから、一日一日、もとの姿に巻きもどっていったら面白いだろうな。
初夏のあの日に戻って・・・
小さな窓越しからAは空を見上げた。
あっ、空高く、鳥の姿が見える。
ああ、なんて悠々と翔んでいるのだろう。
いったいどこに向かっているのだろう。
もしかしたら・・・

Aは嬉しくて優しい気持ちになった。
無事にたどり着きますように・・・
今日が上手く生きれますように・・・
もちろん、みなさんの一日も・・・
だれかに名前を呼ばれた。
さあ、そろそろ行こうか。
あらたな一日がはじまる。
【了】

※全くの私小説にならないようにだけ、気を配りながら書きました。
ですがもちろん全てが、架空ではありません。
基本的には、自分自身が生きてきた中で、大切にしている想いや願いを、つなぎ、合わせた、想像と理想、現実が混在した物語です。
拙い文章にも関わらず、最後まで読んで頂き、本当に本当にありがとうございました。


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