どこにでもいる低温な存在は、きっとこの世界を温かくする
「震災のことについて、思うことあったりするの?」
2011年3月11日は日本を離れていた彼にそう聞かれた。言葉が見つからなかった。いや、正直に言う。心に浮かぶ言葉の冷たさに、口に出すことができなかった。
私は冷酷な人なのだろうか。
大きいけれどわずかなきっかけにすぎないとしか思えない自分を抑え、中1の春の記憶から温度のある言葉を探そうとした。
「東京に来て、福島以外の人と話して、少しだけ気まずそうにされて、相手の方が勇気のいる話題だよなって思いました」
なんとか見つけた言葉さえ想像よりずっと低温で、嫌なやつだった。
「そっかー。僕は話す場面にさえ立ち会ったことがないからなぁ」
震災を身体で経験していないことが、彼にとってはある種のコンプレックスなのかもしれない。だけど、そっちの方がむしろ羨ましくもあった。
怒れないことが悲しかった
東京に住んでいると、どうしても東京以外の地域で起こっていることが見えずらくなる。まして、家にはテレビもない。せめて生まれた場所の話題くらい知っておかねばと、福島の地方新聞LINEアカウントを登録して2年ほどになる。
申し訳ないことにいつもは記事のタイトルを眺めてトーク画面を閉じてしまう。時々気になった記事があればリンクから全文に飛ぶけれど、それも3日に1回くらい。大体は配信された6つの記事とは10秒くらいのお付き合いだ。
ただ、数日前の記事は読み飛ばさなかった。読み飛ばすことができなかった。
「ああ、これはざわつく話題だ」と、タイトルを見た瞬間に思った。
案の定、SNSではこのニュースに対する様々な意見が飛び交っていた。
「今までと変わらないじゃないか。ふざけるな」
「政府で勝手に進めないでくれ」
「住民の声はどうなっているんだ」
喜怒哀楽で示すなら、怒や哀の声だろう。周りの人はそれぞれの立場で正しく声をあげていた。
言っていることは痛いほどに理解できた。でも、自分もこれに乗っかっていいのかどうかは、分からなかった。気持ちが分かるとは言えない。そんな気がした。
言えない理由を考えて分かったことがある。そもそも自分はあの記事に怒りを感じられていない。タイムライン上で交わされていたあの声たちをどこか外から眺めている存在と言う方が、正直な気持ちだった。
「共感ができないって、こんなにも悲しいのか」
共感した様に見せて周りの声に乗っかって、自らの立場を表明することは難しくない。でも本心を尋ね始めた途端、怒りが湧き上がる場所が見つからなくて心細くなったという方が、私の状態を示すには正しい気がした。
怒れないことが悲しいのだ。
しっかり自分に関係している事にも関わらず、周りと同じように怒りという感情を持つことができない。すなわちこの記事を受けての真っ当な反応は怒りだと信じ込んでいるとも言えて、その反応を示せない心を突き放したくなる事実が輪郭を帯びたことが、あの記事と出会えた成果だと思いた買った。
自分事化ができないから、なんなんだ
自分のルーツに被っていることなのに、共感できない。言葉が見つからない。
そんな私は、福島を自分事化できていないのだと思う。過去、語る言葉を見つけようともがいた時期があったけれど、むしろ見つけることが苦しかった。ルーツを自らの中に取り入れる作業が苦痛でたまらなかった。
ここまで書きながら、やっぱりこの記事を世に出すことをためらいたくなっている。
なぜなら、今までお世話になった人、これから出会う人、既に会っているけれど離れたところから見てくれている人、どの人に対しても申し訳ない気持ちが溢れるからだ。一市民として果たさなければならない何かを欠いている気がして、どんな顔で人に会えばいいのだろうと思えてくる。
大抵こう言うと「考えすぎだよ。他人はあなたのことそんなに見ていないよ」と励まされがちだけど、そんな優しい言葉は誰のためにもならない。
だから放っておいてくれ、と言うのはちょっと厳しすぎるメッセージかもしれない。でも、自分事化できない苦しみはそれくらい人間の聖域に近い、誰にも分かってもらえないゾーンの一部なのだと思う。
だけど、この聖域でゴロゴロもがいている人だって、生き続けていい。むしろ、苦しんでいるからこそ優しく目を向けられる場所だってあるはずだ。
それは時に、マイノリティデザインとか障がいへの理解とかいう言葉で括られる場所かもしれないけれど、とにかく自分事化できないからこそ分かり合えそうな人たちに出会えるチャンスは至る所にある気がする。
自分事化できないことを正当化するつもりはない。
ただ、自分事化できることが正義じゃないことを伝えたいだけなのだ。もし同じようにどこか冷たく自分の周りで起きていることを眺めることに罪を感じている人がいたら、「私たちだって、生きている意味あるよね」と励まし合いたいだけなのだ。
だからどうか、ともに怒れない人を見かけても責めないで欲しい。その人はその人なりの怒れない苦しみに打ちひしがれているかもしれない。
そんな時、周りより少しだけ低温に生きてしまう人たちの居場所をあなたが一緒に探してくれたら、私はとても嬉しい。
この世界をもっと温かくするために、低温な存在はきっと必要だ。
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