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自分に合う仕事だろうかと言う答えは一生見つかる気はしないけれど


ヤングケアラー出身の私は
介護とか福祉の仕事は正直
『ちょっと無理だな』と思っていた。

小学生の時から右麻痺の残った
祖母の何かしらのお手伝いをしてきて
料理は勿論、家事の細かい事は全て担って来た。
祖母が2回目の脳梗塞を起こして
いよいよ持って自分の事も自力では儘ならなくなってしまって
お風呂もトイレも
ちょこっと手伝いが必要になった。

私はちょうど
その頃、遅れてきた思春期だった。
父子家庭で育った私にとって
祖母は母代わりの大切な存在には変わりなかったが、時にとても苦痛でしか無かった。

祖母も苦しかったに違いない。
だんだん出来ていた事が出来なくなっていく
それはどれ程不安で怖い事だったろうと
今の私は思う事が出来るけれど
その時は自分の気持ちで手一杯だった。

そのうち介護サービスが毎年の様に見直され
祖母も週に数回ではあるが
デイケアを利用出来る様になった。

もともと社交的だった祖母。
ちぎり絵でカレンダーを作ってきたり
陶芸で一輪挿しを作ってきたり
しばらくはとても楽しそうにしていた。

私は一緒にお風呂には入らなかったが
祖母がお風呂の時は
脱衣所に座り込んで試験勉強をしているのが
常だった。
昭和の家、風呂、
段差は至る所にあって
お風呂には手すりを付けてもらい
介護用の椅子を使っていたけれど
一人でのお風呂は危険だった。
ベラベラ喋る祖母では無かったが
その日あった事をお互いに話す時間でもあった。

ある日
『もうデイケアには行きたくないな』と
祖母は言った。
私は初め、以前祖母が話していた
何かにつけて威張り散らす人が嫌なのかなと
思った。
なかなか理由を話さない祖母から聞き出すと
どうもデイケアのお風呂にあるらしい。
更に聞くと
『男の人が風呂におらすとたい』と。

私も祖母をベットから立ち上がらせる時や
お風呂から上げる時
それはそれは重さとの戦いを経験していた。
小柄でどちらかと言うと痩せていた祖母だったが
力が入らない身体はとても重い。

『お風呂は滑りやすいし、やっぱり力のある男性が居った方が安全やけんじゃない?』と
その時の私は大ごとと思わなかった。

それから祖母はゆっくり身体が弱っていき
自分の事は時間をかけ
人の手を借りて出来ていたが
私が銀行を辞めると同時に
自分で入る施設を見つけて決めて来てしまった。
そのお陰で私は海外に行けたのだけれど。

小さい時からずっと寝たきりで
パーキンソンが酷くなり
一緒に暮らしたのは通年して3年あるだろうか。
記憶の祖父はずっと入院していて
胃ろうになる頃には
そこに生きているけれど
話す事や自力での運動は全く出来なくなった。
面会に行くと、虚な目が
こちらを見ている様な
私の身体の向こう側を見ている様な
そんな祖父の姿があった。
中学の時に祖父が亡くなり
祖母も私が34歳の頃に亡くなった。

私が国際結婚した事
祖母は、とても喜んでくれて
来日して唯一話せる
『アリガトウ』と
日本語たどたどしいオランダ姓の彼にも
会う事も出来た。
彼が亡くなった時は
私の事を誰よりも心配してくれた。
再婚した時、身体はかなり不自由だったが
着物姿の私を見て泣いてくれた。
2人の子どもが生まれた時、
認知症が進んで
ひ孫だとわかっていても、
彼らの母親が私だという事は最後まで分かってくれなかった。
どれだけ私がママなんだよと話しても
『あんたは孫のNorikoでしょう』と笑っていた。

祖母の認知症は誰も悲しませる事が無かった。
トンチンカンな事は言うけれど
お金や食べ物に執着する事は最後まで無かった。
人の悪口を決して言わなかったのも
最後まで変わらなかった。
そんな祖母が亡くなって
やっと私は一つの役目を終えた気がした。

寝たきりだった祖父
小学校の時から介助が必要だった祖母
そんな事から
いろんな仕事を経験したけれど
私は福祉だけは選ばなかった。

正直、もう今までの生活の中で
お腹いっぱいだった。
これ以上誰かの介助をする事も嫌だ。

なのに
ひょんな事から障害者福祉の仕事に就いて
4年目の春を迎えた。
最初の1年間は重度の心身障害者の介助を
経験した。
そこで私は祖母の言葉を遠くの記憶から思い出した。
『男の人が風呂にいる』
私の働く法人は徹底した同性介助である。
上着を着せる、脱がす、
送迎の車から降りる時に手を貸す、
とにかく触れる時は同性で無いといけない。
全盲の人が車椅子で壁伝いにトイレに行くのも
ドアを開けたままで
便器はここで、
トイレットペーパーはここでと
『もう少し手を伸ばしてください、もう少し右です』と身体にはふれず
しかもトイレのドアが閉まって密室にならない様にと徹底して厳しい決まりがある。

1年介助をしてわかった事は
どれだけ年齢を取っていても
見ず知らずの男性にお風呂を介助されるのは
とても苦痛で嫌だと言う事だ。

職場では
どれだけ体重が重くても
リフトを使って同性が介助する。
それはとても簡単な事で
自分がもし身体の自由が奪われ
お風呂やトイレを介助してもらうならば
せめて同性が良いと思う。
高齢者だろうと
障害者だろうとその気持ちは変わらないだろう。
思い出す度、祖母に心の中で詫びる事だ。

障害者の人たちと
どう接したら良いのか、戸惑う私を助けてくれたのは障害者の皆さんだった。
どうして欲しいのか、
言葉で伝えてくれる人
表情で伝えてくれる人
伝え方は人それぞれだったけれど
不器用な私に優しく
呼びにくいオランダ姓の私と仲良くしてくれて
時には言い争う事もあったけれど
私は彼らから1年を通して
とても大切なことを教えてもらった。

それは生きると言う事に
生産性の有無だったり
価値だったり
意味は無いと言う事だ。
大切な人が生きていて欲しいと思う気持ち、
本人が生きていたいと思う気持ち、
それが生きると言う事だと
とてもシンプルに思う事が出来た。

1年後、同じ法人内でも部署異動が決まり
就労移行支援に行くと決まった時
最後のお別れ会を開いてくださって
私より人まわり以上、お若いALSの方が
マイクを介助の人の手を借りて
開かない口を一生懸命に開けて
『またね』と言ってくれた。
目に涙を溜めて言ってくれた、その一言は
私をいちばん笑顔にしたと思う。
それは泣き笑いだったに違い無いけれど
『あぁ、私はこの世界で生きていこう』と
思った。

あれだけ避けてきた世界だったけれど
飛び込んでみたら
難しい人ばかりで
頭が痛くなることばかりだった。
1年の間に何人もの人がこの世をひっそりと
去って行くのを見送る寂しい事も多かった。
でもとてもあたたかく
これほどまでに生きる事を感じる事は
無かった。

思えば学生時代からずっと働いてきた。
何が自分に合うのかと迷いながら
正直今の仕事も続けている。
それはきっと自分が納得出来る答えは出ないと思う。

でもあの幸せなあたたかい涙で笑った笑顔を
忘れる事は出来ない。

私は何だかんだ、とても幸せな仕事をしているんだと思う。

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