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選べない状況に「30円引きの値引きシール」が「外部」をもたらし「潜在性の場」に引き込んだという考察ー「天然知能」と「円環モデル」よりー



お昼選べない問題

先日も例によって昼ご飯が選べず、1時間くらい歩き回ってしまった。たいていはじめに入ったコンビニやスーパーで選び損ねると、「選べない癖」がついてしまうようで、しばらく選べずにウロウロすることになる。どうやら、「必ずどこかに自分が食べたいまさしくそのものがあるはず」と思い、「選ぶ」から「正解探し」にモードが切り替わってしまうらしい。食べたいものの正解など、ないのに。

正解など初めからないのに「ある」と思い込み、ドツボにはまって選べなくなる。これは結構本質的な思考の罠である。当然ながら、そこでは選んだものが全て「正解ではない」(別にもっといい正解があった)ように見えるので、「これではない何か」を求めて絶えず振り出しに返されるような連鎖にみずから陥ってしまう。特に進路や就職先、結婚相手の選択など人生において大きなイベントでは得てしてこういう状況に陥りがちである。

もちろん、日常の些細な分岐点でもこうしたことは起きている。お昼が選べないことも然り。
近くのスーパーには、見た目からして具材感がとてもフレッシュに感じられ、なにかすごく美味しいのではないかとずっと気になっているサンドイッチがある。しかし、430円というのが微妙に高いような気がする。量も多そうで、頭の中でつなげると、食パン4枚分くらいありそう。ローソンにはハムに含まれた亜硝酸が気になるものの、安定しておいしいパンがある。しかし今日はあまりピンとこなかった。第一、惰性で選んだものを食べるのって自分に対する謀反のようで嫌である。このような調子で周辺のスーパーやコンビニを回り続ける。


普段はそうこうしているうちに実はお腹が空いていないのではないかという疑問が湧いてくることが多いが、今日は明らかに空腹感を感じる。日差しがじりじりと強くなる。

最終的には、今回私はセブン-イレブンでパスタサラダを購入することになった。重要なのは、この時決断の決め手となった「30円引きの値引きシール」である。本記事は、「30円引きの値引きシール」が選択においていかなる機能を果たしたか、考えてみるのが趣旨だ。

私は、普段ならパスタサラダなどというものはまず買わない。しかし、この時に限っては「30円引きの値引きシール」が背中を押し、というか、見た瞬間から「これしかない」と思わせ、私を決められない連鎖から救い出してくれたのである。

当時の状況を振り返ると、問いと可能な選択肢の間で板挟みになり、「どこかに正解があるはず」と右往左往していた私は、「選べない」状況から抜け出すための明らかな選択の理由を欲していた。それが何であれどうでもいい。「これぞ」という根拠が必要だったのである。
しかし、そもそも「完璧な昼食の模範解答」というものは存在しない。そのため、選択の決め手になる絶対的な条件など、私の中にははじめからなかった。よって、食べ物を目にするたびに、「こんなのどう?」と自分で自分にいくら訊ねてみても、解答が出るはずがない。
「なんでうどんと天丼はセットなのだ」「コロッケバーガーってどっちも小麦粉」「税込価格だと予想外に高い」「普段買わない麺類をあえて買う意味」などという、消極的な理由で却下されてしまう。


数を当たれば突如として「決めて」が「もともとそこにあったように」立ち現れてくる可能性に期待してみるが、そのようなミラクルもなく(ごく稀に「私が食べたかったのは紛れもなくコレだったんだーー!」と問と解が同時に創発して同時に解かれるようなこともあるが)、ふんわりとした、しかし明確な「コレジャナイ感」にさまようだけであった。


「天然知能」に基づく考察

このような事態において、突如現れた「30円引きのシール」。これは一体何だったのか。

それは思うに、膠着状態に陥った解けない問い(問いの情報量の少なさに対して、選択肢が豊富すぎてバランスが取れず、収束しない状態)をオルタナティブなやり方で解決してくれる、まったく新しい文脈の到来だったのである。

ここで「外部」という表現を用いたのは、郡司ペギオ幸夫先生の「天然知能」の事が念頭にある。

「天然知能」とは、ガチガチの二項対立が拮抗状態に陥り、にっちもさっちも行かなくなっているところで、固定された限定文脈をずらし、思いもよらない第三項=外部をどこからともなく呼び込む(「やってくる」)仕掛けである。それは、決められた文脈内で、所与の問いに対して調和の取れた答えを淡々と弾き出す人工知能にポジティブかつユニークに対抗するもので、問いと答えの間で板挟みになってギリギリまで自問自答した挙句、うっかりとんでもないことをしでかしたり、呼び寄せてしまう知性を天然知能というのだ。

「天然知能」の二項対立では、肯定と否定が矛盾したまま結びつく状況が起きる。これは例えば、「被害者であり、加害者でもある(どちらでもある)」かつ「被害者でなく、加害者でもない(どちらでもない)」など、対立する二項を共に成り立たせる肯定的矛盾と、共に否定する否定的矛盾が共立するという、通常ならば両立しない命題が緊張を抱えたまま両立することであり、「トラウマ構造」と呼ばれる。

「迷いに迷って、選べない」状況は、多様な段階で「トラウマ構造」をはらんでいる。選ぶ私が発する「どれ?」という問いに対し、おにぎりやサンドイッチといった目の前の回答候補「これ?」の、正解(「これ」)と不正解(「これじゃない」)の両立に始まって、「空腹であり、満腹である」かつ「空腹ではなく、満腹でもない」など、内側に遡行する形で「トラウマ構造」が刻まれてゆく。問題が昼ご飯レベルだからいいものの、それが人生を左右する重大な選択だったりすると、「迷いに迷って、選べない」ことは「私とは」みたいな実存的な淵に自分を追い込んでしまう可能性もある。

「文脈を固定し、特定の文脈を指定して初めて、その文脈における指定の軸(問いと答えを結びつける軸)の対応関係が決まる」(郡司ペギオ幸夫, 『天然知能』,p.74)

ここでいう固定の文脈とは、「完璧な昼食があるはずだ」という私の仮想である。ドツボにはまっていた私はますます「完璧な昼食があるはず」という一つの文脈に拘泥していったため、問いと答えの往復関係(「指定の軸」)が固着して、構造が閉じつつあった。
ところが、留意すべきは、「コレジャナイ感」というスキマも同時に生じていたことだ。
これは重要なところである。例えば、サンドイッチに惹かれつつも、容器にドレッシングが飛び散っているのが、陳列棚に並ぶまでの雑な扱われ方を想像させてなんか嫌だとか、コンビニの麺類はたいてい固まっていて箸で掴むと塊状に全部持ち上がる時のズッシリとした重量感を思うときの微妙な感じ、しかし、そばを食べたいという気持ちは真実のような気がするし、というか、素そばととろろそばの値段の差って純粋なとろろ分の差額を表しているのか、、など至極どうでもいいことを考えているうちに、肯定と否定の間で「ずれ=スキマ=ギャップ」を拡げてしまう。そしてこのギャップこそ、他の文脈の可能性を呼び寄せ、外部を召喚する裂け目になる。

思うに、「ずれ=スキマ=ギャップ」が広がって、二項の結びつきがユルユルになっていなければ、「30円引きのシール」などそもそも視界に入らず、存在しないも同然であった。
要するにここでは、現行の文脈では解消不能な緊張を解放するまったく異質な文脈を現行の文脈に代わって導入するトリガーが、「30円引きのシール」だったのである。
そうして、文脈がガラリと一新された結果、「何のためらいもなく選べる」という行為が、ささやかな「外部」として召喚された。
ただし、あくまで外部は恣意的なものである。文脈が逸脱し、外部が流入するという構造が重要なのであって、外部の内容は「何も買わない」「急に思い出して(目薬とか)関係のないものを買う」「いっそ飲食店に入る」「友達に会いたくなる」など様々に考えられる。

また、ここでは「30円引きのシール」によって、昼食を選択することができた、というふうに説明の都合上行動を名づけたが、実際のところ、選んでいたかは怪しい。
というのも、文脈(行動のモード)が瞬時かつ完全に切り替わったため、行為の中核(文脈に即した相応の振る舞い)は「選択肢の中から選び取る」ではもはやなかったからだ。「まったく異質な文脈」にはお得、フードロス削減、希少性なども含まれるが、決定的なのは「シールが貼られているか、いないか」というシンプルな文脈である。それは、「カモメのひなが親鳥のくちばしの赤い斑点(鍵刺激)を目標にエサを求める」くらい原始的で複雑な思考を要さないものであった。
よって、「シールが貼られているか、いないか」の文脈が全面的に適応されることで、選ばれるべきものはもう「目の前のシールが貼られた他ではないこのパスタサラダ」以外には存在せず、選択の余地(走行可能なレールの分岐)がなくなっていたのである。だからこそ、結果的に記述可能な行為としては「選べた」し、同時に「選ぶ必要がなくなった」。これはむしろ、「選ぶ」という文脈から、「鍵刺激に従う」に文脈を移行したと言った方が適切であろう。いずれにせよ、こちらとしては非常に楽なのであった。
これは例えば、乗換案内アプリで検索すると、多種多様な行き方を雑多に示されて一体どれがいいのかと混乱することがあるが、条件=文脈を絞る(速さ、運賃、乗り換えの回数)ことでルートが限定され、「選ばずに済む」ことで「選べる」のと似ているかもしれない。文脈移動のフットワークの軽さはうまく使うとライフハックとなる。

「円環モデル」に基づく考察

続いては、以上の「選べない」問題について、入不二基義先生による『現実性の問題』における「円環モデル」(図1)を軸に考えてみたい。

図1 円環モデルの概要図

この「円環モデル」、非常におもしろいのである。部分的に適応すれば、色々これでいけるような気がする。もちろん、郡司先生と並べて読むこともできるし、今回は深入りしないがレヴィナスにおける主体の変遷を「私である(現に)」→「私でありかつあらゆる可能な他者である(可能性)」→「身代わり(潜在性)」→「われここに!(現に)」でぐるっと一巡するモデルも描けるのではないかと考えている(もちろん、レヴィナスをそのような体系内で説明することが邪道なのはわかっているし、この円環をなしくずしにしてほしいと淡い期待をしているが)。


それでは、円環モデルを見ていこう。もちろん、ここではとても全てを語ることはできないし、省略した点もあるので、あしからず。


円環モデルとは、「今現にこのようにある」という現実性を、「経巡り(循環・転回)」「現実の現実性」(「現に」という力」)の観点から説明したものである。
今回は、主に前者に言及する。

現実性の循環とは何かというと、現実が刻々と深まっていく、目に見えないけど確かにある動き(地球の自転公転のような)のことである(と、理解している)。
それは、⑴始発点的な現実 ⑵可能的な現実 ⑶潜在的な現実 からなっており、このサイクルを回す力こそ、「現に」という無形のエネルギーである。

1. 始発点→排中律

昼ご飯の話題に引きつけて、例えば、現に「サンドイッチを手に取った」という端的な事実から始めるとする。
入不二によれば、現にこうあるという端的な事実は、出発点である時点で、現にそうでありつつ、そうでないことがない」という点で、肯定と二重否定の間の「一致とズレ」を含んでいるのだという。つまり、現にこうであるという疑うまでもない端的な事実(入不二の言葉では「現実の野生の強さ」)を、賢しらにも論理的に認めてしまうと、初発としての純粋な強さは、「そうでないことがない」程度に弱められてしまうということだ。それすることよって、我々は「現に」を操作的に扱うことができるようになるが、同時に「排中律」つまり「Pまたは非P」という命題がつきまとうようになる。

「「二度も」否定を経由しないと、そもそもの(初発の)肯定の強さに辿り着けないのだろうか。「二度も」否定を経由するどころか、「一度も」否定が生じないことの内にこそ、(初発の)肯定の強さをみるべきではないのか」(『現実性の問題』,p.23, 強調筆者)

端的な事実を論理的に認めること、「P」それ自体から「P=P」「PならばP」そして「Pまたは非P」と解像度を深めていくことは、人間の知性の深まりであるとともに、現実を良く言えばスマート、悪く言えば盲目的、自動的にこなせず、斜に構えてぎこちなくなってしまうことを意味する。「P」と手放しに言うことができず、「たぶん、P、かなあ…?(自信なし)」と疑わしくなってしまう、「ダサさの根源」であるともいえよう。生きる分には「P!」だけで十分なのであって、「=P」、「ならばP」のダブり、ズレは生(き)・現実のインパクトからすると余計、過剰さなのである。

多分、エポケーモード(現実にふとマジレスしてしまうこと)に入ると、排中律はリアルな質感を持って立ち上がってくる。サンドイッチをしげしげと眺めているうちに、ドレッシングの派手な飛び散りや、パンとパンの密着度が甘くてきちんとサンドされきれていないことに「サンドイッチ♪」と高まったはずの気持ちが萎えてくることがある。すると、自明裏の「これはサンドイッチだ」(「P」)という確信と、目の前のサンドイッチの間で不一致が生じ、「これが サンドイッチなのか」(「非P」への傾動)という怪しさ、現実への疑惑、「サンドイッチまたは非サンドイッチ」がじわじわと表出する。「現にこうである」の一義性がぐらついてくるのである。
またこれは、「「私」であるということ」に顕著かつ深刻である。自明にあってわざわざ問題にならない「私」を「私でないことがない」(郡司の表現を借りて言い換えれば、「私ではない」というよりはむしろ「私である」)程度に格下げすると、いわゆるブランケンブルグのアンネ・ラウ症例、「自然な自明性の喪失」離人症のようになる。この時点で既に、「ずれ=スキマ=ギャップ」の萌芽が開きつつあり、じわり、じわりと「やってきている」。

2. 反実仮想→可能性

さて、続いて「反実仮想」の領域にうつる。反実仮想とは、「もしもPではなかったら」ということで、要するにタラレバである。選んだ後になって、「サンドイッチではなかったとしたら…」と心ここに在らずでサンドイッチを食べるようなことはよくある。
排中律は両義的な性質があり、「Pまたは非P」の「どちらか一方性」を重視すると「唯一性」(サンドイッチか、サンドイッチではないか)に焦点が当たる。対して、「どちらでもありうる性」に着目すると「二つ性(複数性)」が焦点化される。
反実仮想の次に待ち受ける「可能性」の領域は、後者の「複数性」がより一層集中していったものだ。

反実仮想という形で示された現実の複数性は、可能性の領域において無限に豊穣化する「Pまたは、 Q または R または S または ・・・」というありうる可能項が、毛糸の端を引くようにして、芋づる式に展開するのである。現に手に取ったこのサンドイッチが、このサンドイッチのまま、「サンドイッチまたは、おにぎりまたはうどんまたはそばまたは・・・」を背負って現前する事態である。
「反実仮想」ではまだ文句を垂れつつもサンドイッチを食べているくらいにして「現にこうである事実」(現実のプライオリティ)が優位であるが、可能性では、現在の強度、優位性は徐々に希薄なものになり、現実が局所化する(入不二の表現では「転落」)。ありとあらゆる可能性が増大するにつれて、「別にサンドイッチである必要はなかった(おにぎりでも、うどんでもそばでもよかった)」という「どれでもあった性」が「現にこのようである性」を凌駕してゆくのだ。
可能性の領域を「天然知能」モデルのうちに見出すとしたら、肯定的矛盾のオーバーヒートのような状態であると考えられる。少し論を先取りするが、肯定的矛盾(豊穣化した肯定項の奔流)が煮詰まりに煮詰まると「なんでもなくて、なんでもあり」なステージに抜けることができて、円環モデルではこの領域は「潜在性」にあたる。郡司は、肯定的矛盾の果てに様相の色味がホワイトアウトするような現象を「脱色」と表現する。郡司は、凝集した緊張を一気に解くような作用として「脱色」をいろんな段階に適応している気がするので、一義的には言えないが。
「圧倒的な肯定的矛盾があるからこそ、これを脱色し、被害者意識、加害者意識の否定的矛盾に持ち込める」(『創造性はどこからやってくるか』, p.67)

思うに、私が昼食を選べなくなっている時は、可能性の領域で煩悶しているはずだ。可能性の飽和が、「現に」手に取った「これ」の唯一性をかき回してしまう。一つの図の中に地と、そこから可能な図が次々に去来しているから、唯一の見えに絞ることが難しいという説明もできる。図と地に単純化した例をあげるとすれば、ルビンの壺を「顔」と見ようとすると「壺」がニュッと前景化し、「壺」と見ようとすると「顔」の説得力が増してゆく状況と言えるだろうか。

また、排中律では、一定の議論領域の中で肯定の連鎖を生成するだけではなく、その肯定を外側から規定する「枠」「議論領域のドメイン」が存在するのだという。
これは、郡司が「天然知能」で示すところの「文脈」であろう。つまり、私の選べなさ(肯定項の連鎖、「サンドイッチまたは、おにぎりまたはうどんまたはそばまたは…」)を支える直近の議論領域(ドメイン、文脈)は「必ずどこかに自分が食べたいまさしくそのものがあるはず」となる。
直近の、と言ったのは、この文脈をさらに包含する上位のメタ文脈が連なっているためである(例えば、「炭水化物が含まれる」とか「スイーツではない」とかそもそもは「食べものである」とか)。
そして、これこそ値引きシールに関わる重要な点だが、私は実体のないドメインを固定し、そのドメインの中で「あれでもない」「これでもない」というないない尽くしの自縄自縛に陥っていたのである。

3. 潜在性の場

以上が、円環モデルの右半分の話である。続いて、左半分の領域に移行していく。

ここまでの内容をまとめると、この時点での私は、可能性の領域において、無限に増幅する「ありうる昼ごはん」の連鎖を前にして、いよいよ何を選べばいいのかわからなくなっている状況にある。そして、それは「必ずどこかに自分が食べたいまさしくそのものがあるはず」という無根拠かつ空疎な文脈(議論領域のドメイン)に釘付けにされて身動きが取れなくなっているためであった。

可能性の領域からさらに進むと、「潜在性」の領域に出る。可能性の領域は、肯定項や肯定枠が無限に連鎖するものの、それらは「サンドイッチではない、おにぎりではない、うどんではない・・・」という分割(区別)の否定性が働いていた。ところが、次なる潜在性の領域では、区別に支えられた否定性の規則から、ガチっと歯車が別のジョイントに組み代わるように「転回」が生じ、肯定の優位性が全面化する
肯定性とはどのようなものか。それは「区別をなくしてしまう」ことによって達成される。潜在性は、区別がなく(ない、というか凸凹がまっさらになって「ない」ように見える)あらゆる項や、項を生み出す枠組みがそこから生じる無限領域、「場」と化す。「なんでもない」とともに「なんでもあり」な(レヴィナスでいえば「身代わり」が可能になるような)創造性の場なのである。

区別がない、という懐の深さ、豊穣さ。
郡司は、『やってくる』等でデジャブの話題をするとき、「外部」を「純粋な懐かしさ」と表現する。「純粋」というのは、要するに「これ」とか「あれ」という特定文脈依存的な様相が一切ないということである。だからこそ、「純粋」なのである。
これは「うまみ」のようなことだと思う。我々が「うまみ」を直に感じるまさにその瞬間、それは未分化な強さである。「海老」とか「鳥」とか「魚介」などといった具体的な様相がなしにされて、純粋に味蕾を刺激する強度というしかない「うまみ」が「やってくる」のだ。

「枠(ドメイン)」自体もまた、分割(区別)なき無限の場(源泉)から生まれ出ると捉え直すならば、その場(源泉)の無限性は、系列的にどこまでも続きうるという無限性ではなくて、その無限性自体を生み出す無限となって、特定の無限領域(ドメイン)そのものを生み出す無限となる。言い換えれば、無限領域の無限性は、分割(区別)の終わりのなさであるのに対して、無限の場の無限性は、分割(区別)を持っていないこと(終わりのなさ自体がないこと)である」(『現実性の問題』, p.36, 強調筆者)

入不二は、無限の場で区別がなくなることを、「様相の潰れ」とか「ベタ」という。可能性の領域では肯定項の個物的具体性(おにぎりやうどん、そば)が残留していたのに対し、潜在性の場ではそうした区別がベターっと一色に塗りつぶされてしまう。「ない」のではなく、「一つにまとめられる」ということが重要である。

この潜在性の場は井筒俊彦でいえば「存在が花する」という時の絶対無分節の「存在」である。井筒が分節以前の存在について記述している箇所を引くと、「のっぺりと、どこにも節目のないその感覚の原初的素材」(『意味の深みへ』, p251)という表現をしていて興味深い。「なんでもなくてなんでもあり」な潜在性の海は「ベタ」「のっぺり」としている(「脱色」されているとも言えるだろうか?この辺り、自信がない)。そうしたあり方だからこそ、無尽蔵の創造性をたたえている。

またこれは、キャンバスにジェッソ(下地)を塗って白く均すことに似ている。白い画面は、「何もない白地」とみることもできるし、「極小の粒子が凝集している緻密な図」とみることもできる。入不二は、様相が黒いベタ一色で塗りつぶされること(「潜在無限色」)をマーク・ロスコの絵画になぞらえている(『現実性の問題』, p.151, 脚注19)

潜在性の場は、「ある可能性自体の出現可能性の可能性」であるため、そこでは、「おにぎり」「サンドイッチ」「私」「あなた」といった様相だけでなく、その枠組み、文脈もないゆえに、いくらでも創発する

論点をふりかえると、私が昼ごはんを選べない状況において、致命的だったのはその「文脈」の譲れなさであった。そして、潜在性の場では「あれ」や「これ」という様相の区別とともに、それを括る文脈も「潰れ」、そして「生まれる」
すると、以下のように考えることができる。

まず、転回によって文脈が一旦閉じられることで、それに伴う様相も潰れ、ドツボにハマっている状況が解消された。さらに、その勢いで潜在性、無限領域(無限文脈)の場がわずかに開かれた。厳密に言えば、現行の固定文脈(ドメイン)が文脈の全てではなく、まったく別の領域がいくらでもあるということが示されたことによって、私の自由度が開放された
そして、他でもない「30円引きのシール」こそ、文脈(とそこでの可能項の奔流)をリセット(「転回」)してくれた救世主なのである。

4. 可能性の領域における「外部なし」の恐怖

通気口が塞がれた文脈内で様相がとめどなく溢れてしまい、同じところを循環して抜け道がなくなってしまう状況は自分の意思では止めるのが難しく、場合によっては危険である。
郡司は『やってくる』第4章「いま・ここが凍りつく」においてリアリティが失われる「外部なし」の恐怖について語っている。
「与えられた限定文脈の中で解答し、その外部と殺属することは決してない」(p.133)ところから抜け出すためには、循環する装置を壊すしかない。それは「死」である。
郡司はまた、リアリティが立ち上がるために必要なのは具体的な要素ではなく、「いつこの空間に参与するかわからない空間外部の潜在性」であると述べている。

郡司は、死を招き寄せる自己言及ループに外部を呼び込むことで脱出成功を果たしたエピソードとして、「とにかく爪を擦り続けることで全く無関係な外部を召喚した」経験を挙げる。ここで重要なのは、「足の爪」が特定の文脈に回収可能な、私物化されたものではなく、全く意味づけられていないものだった点である。だからこそ、「意味を見出そうとする私」と「意味を見出せない爪」の間にギャップを開き、外部=リアリティ=潜在性を呼び込むことができた。
「30円引きのシール」も、これまでの文脈とは関連がない忽然と生じた記号だったからこそ、文脈を転回させるように機能したのだと思う。

5. そしてダサさは続く


長くなってしまったが、「天然知能」や「円環モデル」を通じて昼食が「選べない」問題における「30円引きのシール」は固定文脈の逸脱と開けをもたらしたことが明らかになった。
ただし、これでおしまいではない。現実は、まだまだ続くのである。円環モデルは一巡してもまた、回り続ける。
つまり、(1)現実の開け→(2)豊穣化→(3)潰れ を通じて一巡した様相は、次の瞬間にはまた、「30円引きのシールが貼られたパスタサラダ」という「現に」を始発点として、ふたたび回るのである。私はまた、「排中律」の、ダサさに。

それを、幸ととるか不幸ととるか、自転公転する惑星のなかで、「私」も自転公転しつづけている。。


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