ひづみ

「わたし」と「あなた」がちゃんと出会うってなんだろな〜と考えつつ、ボーっとしたりハッと…

ひづみ

「わたし」と「あなた」がちゃんと出会うってなんだろな〜と考えつつ、ボーっとしたりハッとしたりしています。 関心:精神医学、哲学のふだんづかい、絵、散歩

最近の記事

何のことはないここがそもそも「存在の彼方」であったと応えることが今ならできそう

『全体性と無限』を思い出しては読み直している。これがすごくおもしろいので、思ったことをあまり深く考えずに述べていきたいと思います。井筒先生もそうなんだけど、レヴィナスも、ほとんどそういう嗜癖物なんじゃないかなあ。 「結ぼれであるとともに解け」「存在の手前ないし彼方」といった、両義的表現に不断に注目したい。こうした「どちらでもなく、どちらでもある」ことは極めて重要であるし、そこを軸に読み進めていくと非常におもしろい。『全体性と無限』という表題すら、同じことを言っていると思う。

    • 自己限定を淡く支える真空浮力は 「私」の「宇宙」を更新して 「私」は「私」であってなく

      前回に引き続き(正直ずっとこれしかしていないのですが)、「絶対無の自己限定」周辺について考えてみたい。 また、先日医学書院の「シリーズケアをひらく」から刊行された村澤和多里・村澤真保呂による『異界の歩き方ーーガタリ・中井久夫・当事者研究』という本を読んだので、それについても少し言及したいと思います。 自己限定は、私を他でもない「私」たらしめると同時に、自己限定の上に成り立っている実存への気づきによって「私ならざるもの」へと飛躍しうる接触面に瞬間生じる。その点で自己限定は「私

      • いつまでも自己限定しきれない我々の「共通の根拠」を認めてみたいー木村敏の自己論をめぐってー

        我々は普通、「私」が他でもない「私」であること、つまり、1=1は1=1でしかないことを疑いようのない真理として、自明の事実とみなしている。 この定理が崩れるとき、つまり、1=が「1」を導出せず、5でも犬でも青色でも∞にもなりうる事態は正常な精神ではまずありえない。木村敏によれば、これこそ分裂病の根源的事態に他ならず、自明性の不成立は「自己の自己性にかかわる自明性の喪失」と表される。その世界では1=1が成り立たず、「私」が5でも犬でも∞でも青色でもあり、宇宙にもなってしまうの

        • Q.「いかにして器官なき身体を獲得するか」A.「いかにしてもよい(曼荼羅を眺めながら)」

          ドゥルーズ・ガタリ『千のプラトー』の重要主題「いかにして器官なき身体を獲得するか」。この、厳つくも凛とした「いかにして」をくりかえし反芻するたび、渦巻いて立ち上がる気持ちを大切に味わってみている。 というのも、先日way_findingさんに貸していただいた『アジアのコスモス+マンダラ』の表紙の宇宙卵をぼんやり眺めていたら、「これってつまり、「いかにして器官なき身体を作り上げるか」だよなあ」と思われたためである (ちなみに、自分でも購入したため、現在手元に宇宙卵が2つある状

        何のことはないここがそもそも「存在の彼方」であったと応えることが今ならできそう

        • 自己限定を淡く支える真空浮力は 「私」の「宇宙」を更新して 「私」は「私」であってなく

        • いつまでも自己限定しきれない我々の「共通の根拠」を認めてみたいー木村敏の自己論をめぐってー

        • Q.「いかにして器官なき身体を獲得するか」A.「いかにしてもよい(曼荼羅を眺めながら)」

          「虹彩の鏡」

          生にとって掛け替えのない解脱の機会、それはー… われわれの種がかつてあり、引き続きあるものの本質を思考の此岸、社会の彼岸に捉えることに存している。…あるいはまた、ふと心が通いあって、折々一匹の猫とのあいだにも交わすことがある、忍耐と、静穏と、互いの赦しの重い瞬きのうちに。 レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』

          「虹彩の鏡」

          つながれない即つながれる 西田幾多郎 『私と汝』について

          普段、何かを考えるときはイメージや映像にしてからそれを文章に直すという順番をとっている。 視覚的に考えた方が無理がなく、的確に言いたいことが反映される。しかも、視覚的な手がかりを介して過去の記憶や体験が連想されるため、自分でも予想だにしない事柄が芋づる式に引き出され、意外にぴったりはまることもある。 そこでの言語化は「いかに脳みそを素敵な言葉で言い換えるか」の翻訳作業という感じになる。 昔はこれが苦手で、相当な「がんばり」を要していたが、最近は比較的たのしく書き起こせるように

          つながれない即つながれる 西田幾多郎 『私と汝』について

          絶対的な生を肯定するということ(器官なき身体について)

          ドゥルーズ・ガタリ(以下DG)『千のプラトー』第6章「いかにして器官なき身体を獲得するか」では、マゾヒスティックな倒錯行為において、器官身体をバラバラに解体していって、果てには器官のまま有機化を脱すること、つまり器官なき身体を「今ここで」実現するプロセスが細やかに書かれている。 「器官なき身体」は圧倒的にビジュアルで捉えられる概念として非常に魅力的であるし、おもしろい。以下で引用する文章の、太線にした箇所が要は言いたいことである。 強度の卵としての「器官なき身体」。 それは

          絶対的な生を肯定するということ(器官なき身体について)

          雑感『哲学とは何か』を読みつつ考えたことなど

          ドゥルーズ・ガタリの『哲学とは何か』(財津 理訳)がとてもよく、「おっ」という単語を見つけては大層おもしろがっている。 (単行本は、戸田ツトムさんの装丁がメチャクチャ格好良くて、アメジスト・ドームやモルフォ蝶のような、深くて妖しい光を発しているのに夢中である) 哲学とは何か。哲学とは手づくりするものだ。哲学とは、変わってゆくものだ。哲学とは、わたしとともにあるものだ。哲学とは、勝手に動き出して勝手にしゃべるものだ。 仮にこのような「こたえ」を「問い」の後に続けてみる。する

          雑感『哲学とは何か』を読みつつ考えたことなど

          「混線経路」

          だいぶ昔の絵です。でも題は描いたときからおぼえている。

          「混線経路」

          内包身体・外延身体・「器官なき身体」

          ドゥルーズの「器官なき身体」という言葉がイメージの欠片として心にひっかかり、淡い光を受けて揺らめいている(海中の岩に絡まった海藻類のように)。 それは、古い本と白檀のにおい、対流するけむりの紫色。同時に、勢いよくうねる肉塊や、触ると手が粘液でぬるつくような、生々しい実在感も感じさせる。 きっと「器官なき身体」は私の中にもあって。 それはいつもは鎮かにしているが、何かの契機で獰猛になる。 「それ」は完全に私になりきっていないからこそ、愛おしくあり、時折ちょっとよそよそしく

          内包身体・外延身体・「器官なき身体」

          「バナナはおやつに入りますか」は「絶対矛盾的自己同一」である

          いまだに、歩行中の道に出っ張りがあるとついつい登ってしまう。あるいは、色付きのブロックだけ選んで歩いたりする。 西田の文章と自分の心を往来しながら読むときも、気分の上ではそういう感じである。 畳みかけるような西田の言葉が隙だらけの私の心を席巻する。逆に、隙のない文章のスキマに私のしょーもない思いつきを滑り込ませてみたりすると、岩波文庫(青)が呼吸するような気がする。 西田のいう個物とは、「自ら自己を限定するとともに他によって限定されるもの」である。 自己原因的に自立しうる

          「バナナはおやつに入りますか」は「絶対矛盾的自己同一」である

          「交感流」

          ねえ、口で伝えられる物語のように移ろい行き、溶けて幻に似た無に近づく物質の将来について語ろうじゃありませんか。/稲垣足穂「オードヴル」

          「交感流」

          「融即律をこえて」

             わたしだったもの・わたしになりつつあるもの・わたしになりゆくもの            このようなかたちとしてあること       ほどける  ・ まとまる  ・ ひろがる  ・ つながる

          「融即律をこえて」

          「ここにしかいない」かつ「どこにもいない」かつ「どこにでもいる」女の子のこと

          よく、アイドルなどで「どこにもいない女の子」という枕詞が売り出し文句として与えられることがあるが、よく考えるとこれはどこかおかしい。なぜならば、当該の女の子は現にそこにいるわけだから。「どこにもいない女の子」と言うためには、そもそも特定のどこかに存在している誰かではいけないはずである。 これに対して、魔法少女に選出される女の子はたいてい、「どこにでもいる女の子」なのが興味深い。これも実は矛盾している。うっかり使い魔を召喚してしまい、ひょんなことから魔法少女に任命された時点で

          「ここにしかいない」かつ「どこにもいない」かつ「どこにでもいる」女の子のこと

          ばらばらな「わたし」のまとまれなさについてー解離性障害、ベルクソン、西田、レヴィナスー

          柴山雅俊さんの『解離の舞台-症状構造と治療』が面白くて一気に読んでしまった。 色々と考えることがあったので、忘れないうちに書き連ねておくことにする。 解離性障害の症候の基盤にある構造とはいかなるものか。 柴山は、「存在者としての私」と「眼差しとしての私」の剥離を解離性障害の中核に位置付けている。 解離が起きているとき、主体は様々な人格や時間や空間が交差する場所、つまり文字通りの舞台となる。そこで、「眼差しとしての私」は「存在者としての私」という器を離れて定点なく漂い、ある

          ばらばらな「わたし」のまとまれなさについてー解離性障害、ベルクソン、西田、レヴィナスー

          雑感 永井均『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』と思いきやほぼ川本真琴の話

           永井均さんの『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』を読んだ。 永井さんの西田観は下手にむずかしくなくて感覚的にしっくりくる。また、(通例だが)端的に不思議なことを素朴に不思議がっているのがいい。 永井さんは西田をして「超弩級の哲学的化け物」といわれるが、この、一見地味で静かな大地の下に、ものすごい発酵熱がグツグツ沸き立っているような感じ、スマートなモテとかオシャレとは次元を画し、内側に入り組んで自己濃縮を極めてゆく猛烈なダサさがいい。 本書では田辺元による西田批判

          雑感 永井均『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』と思いきやほぼ川本真琴の話