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文章にまぐれあたりはないから

「どうして、できるのにやらないの」

いつもは温厚な先輩の声が、あきらかに張っていた。スチール机を挟んで座る私の足元の、つま先がこすれたパンプスが見える。夕方6時。もう帰りたいなと思ったときに呼び出された会議スペース。

先輩が言ってるのは、新入社員研修での私の行動のことだ。1か月で新規案件100万円分を受注すること。けして実現不可能な研修ではない。営業部隊なら、きっとどの会社でもある。

「足りない」を見透かされている。

今日の電話リストを思い浮かべた。アポがとれたのは2件しかない。目標は、6件のアポのために最低60件かけることだった。でも、企画書作成とか先輩と一緒に外回りとか、ほかにやることがあるんだ。私だって、怠けているわけじゃない。

それでも。

ああ、悔しい。悔しいな。しわの付いた灰色のスカートの上で、握りしめた手の上に水分がぽたぽた落ちる。22歳の新入社員だった私は、唇をかみしめながら静かに泣いた。

全力を尽くさずして、「これくらいだろう」と余裕かまして、手に入れたいものをつかめた記憶がない。

先日、いい部屋ネット×noteのコンテスト「はじめて借りたあの部屋」で、投稿した短編小説が審査員特別賞を受賞した。

創作の経緯はこちらのnoteに書いた。自分でいうのもかっこ悪いが、「賞を獲る」ために、普段ではやらないぐらい組み立てた。お手本作品を読み込んで、起承転結のパートにわけ書かれている要素を洗い出す。段落別の文字数をチェックする。ほかの投稿作品をくまなく読む。

仕事であれば当たり前のリサーチも、noteの更新ではまずやらない。画面に向かい、「いま書きたいこと」を文字にするだけ。構成替えや段落を消すことがあっても、見直しはせいぜい3回。書けば書くほど、緑の「公開」ボタンをクリックする指は軽やかになる。

準備に時間をかけ、レビューまでお願いして、締め切りギリギリまで粘ったのは、賞を獲りたかったからだ。

強烈に光る原体験ではなく、うっすらと記憶にある粒を拾い集め、そこから新しい物語を組み立てる。それが今回の短編小説で、私が挑戦したいことだった。でないと、この先ずっとは書き続けられない。

受賞の知らせをうけとったとき、喜びとおなじくらい安堵した。「大丈夫」と、胸のなかで止めていた息をふっと吐きだした気分だった。

新卒で入社した会社で、先輩から「行動量が足りない」と指摘され、私は不覚にも泣いた。悔しくて泣いた。期待に応えていない自分が情けなかった。でも、涙の一番の原因は、私が私を信じていないと気づいたからだった。

「できない」と端から思っていた。達成できるわけないって。顧客リストは先輩の手垢がつくくらい古いし、何十件も電話をかけられない。なにより新人だ。お客さんが100万円も託してくれるわけがない。

全部、「できない私」を納得させるための言い訳だった。

2年前、第2回cakesクリエイターコンテストが開催されたとき、同じ気持ちを抱いた。「ダメもとで応募してみよう」って。ライターとしての実績もない。エッセイなんて書いたことない。だから、参加するだけで十分だ。はじめから、公開の緑のボタンを押すことがゴールだった。

当然ながら、1次選考通過者リストに「サトウ カエデ」の名前はなかった。当然、と思えてしまう自分が情けなかった。せめて書き手の自分が納得できるくらいの努力をしたのか。どれだけ考える時間をかけたのか。書きあがって、文章を何べんも読み返したのか。どれもしなかった。

もちろん、「参加する」楽しみ方はあると思う。でも、端から受賞をあきらめた気持ちで書くなんて、もったいなくないか。2年に1回巡ってきたチャンスだ。しかも、次回もあるとは限らない。

こんなこと、誰でもない自分に向けて書いている。だって、気づいてしまったのだ。第3回cakesクリエイターコンテストの告知を読んだ瞬間、「何を書こうか」と考えて、その裏で「でも連載だし……」とか「エッセイや小説を仕事で書いたことないし……」と言い訳を考えはじめた自分に。

笑ってしまった。まだ怖いのかって。

挑戦しなければ、失敗しない。できない自分に出会わずに済む。そして、挑戦しているように見せかけて、一線ひくことだって可能だ。「私は本気で賞を狙ってないから」って、守りに入るのはいくらでもできる。選ばれないと最初から決めてしまえば、安全地帯にいれる。ずっとね。

書いた作品の、「第一読者」はだれだろう?

下読みをお願いしたレビューアーだろうか。それとも、完成作品を一番はじめに目を通す読み手だろうか。

本当の意味での第一読者は、自分だ。一番の読み手である自分が、面白いと納得のいくものを書いていないのに、誰かの心に響くなんて都合のよい奇跡はおきない。私がわたしを信じずに、人の心に届く創作を生み出せるものか、と言い聞かせる。

文章の完成度は向き合った時間と熱量に比例する。リサーチや構成に時間をかけるほど、描写の解像度は上がる。胸に長年しまった思いを言葉にするほど、文章の密度が増す。推敲を重ねれば重ねるほど、整う。

指先で流して書いた文章が、多くの人に響いて届いたことがない。そして熱を込めて書いたものが、遠くまで届くとも限らない。コンテストで選ばれることも、誰に読まれるかも、自分ではコントロールできない。

決めて動けるのは、どれだけ文章と向き合うか。それだけだ。

2年前とくらべて、noteの景色はがらりと変わった。いつも接する界隈の創作仲間だけでも、優れた書き手の顔が思い浮かぶ。

瞬殺飯のありのすさん、十八番料理のまつしまようこうさこさんのチョコレビューや、ナースあさみさんの医療相談記事。ほかにも、しりひとみ嬢のこらえ切れない笑いを誘う記事や、いちとせしをりちゃんのエッセイ、ちゃこさんげんちゃんのクズエモ……ほかにもnoteで土台を固めた多くの書き手が、賞を狙いにいくのだろう。

プロもいる。はじめて書く人もいる。フォロアーが数千、数万なんて人もいる。もっている技量も、コンテンツの豊富さも、相談できる仲間も、なにもかもが私たちは違う。言ってしまえば、創作に向かうスタートラインはフェアじゃない。

誰もが納得する書き手から、強烈な光を放つ原石みたいな書き手まで、掘り起こされる。noteの世界は、創作の世界は、宇宙みたいに広い。


平等に決まっていることは、応募できるのは1作品。目の前には、なにも書かれていない白いノート。どれだけの熱量をつぎ込むのかは、自分次第。

さあ、どうしよう? 何を書こうかって、問いかけている。飛び込んだところですんなり叶う世界ではなくて。それでも、飛び込まなければ何も得られない。

我ながら暑苦しいなと思いながら、桜の咲く季節までに、私はどんな思いで緑の公開ボタンを押せるのか、想像している。



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