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荒地の家族
3月11日。
この日付を見るだけで当時の記憶が蘇る。長い揺れと停電、テレビ中継で流れ続けた瓦礫の山と襲いかかった海の映像。
あの日以来、小さな揺れでもとても怖くなっている。
宮城県亘理町に暮らす植木屋の男・祐治とその家族や周囲の人々に起こった出来事を静かに、しかし暗い影をまといながら物語は進む。
あの日の出来事を作中では"災厄"であり"海の膨張"と呼ぶ。主人公の祐治は様々な場面であの日を思い出す、その描写が生々しい。
揺れた瞬間の人々の焦りや戸惑い、海が襲ってくるという半信半疑の中で逃げ、建物や車が次々に飲み込まれていく様を、読みながら体感した。
あの時、底が抜けたように大地が上下左右に轟音を立てて動き、海が膨張して景色が一変した。
低い轟きを伴って、海、そのものが迫った。地面を塗り替えるように黒々とした渦が広がり、区画の隙間を縦横に埋め尽くした。家々が軋み、砕け、沈み、あるいはずれ動いた。
祐治は常に死者に取り囲まれていた。それは"災厄"で亡くなった多くの人だけではなく、病気で突然いなくなった妻、生まれることのなかった自分の子供、幼馴染もいた。その人たちのことを考えてしまえば自分の生きる意味を見失い途方に暮れる。祐治は激しく悲しんだり泣いたりはしていない、でも頭から離れることはない。
読み進めるほどに胸が苦しくなる。もしあの日自分が体験していたら、それでなくても身近な人の死が何度も自身にふりかかってきたらと考えてしまった。
厚く黒い雲の下、航行する船のない海はあの世を思わせ、波の寄せては引く浜辺は常に生と死のせめぎ合いを想起させた。黄泉から無数の死者の手が伸びてきて、死が迫るようだ。ひと言呼びさえすれば、即座に死者が応え、引き寄せられ、あっという間に波の間に飲み込まれそうだ。
物語にはあの日から数年経った街の様子もよく登場する。その中でも強く印象に残ったのは防潮堤の描写であった。
白い要塞のように聳え、海から人を守っているのでなく、人から海を守っているように見える防潮堤に向かって祐治は歩いた。
自分は実際に防潮堤を見たことがあるが、真新しい白いコンクリートが海岸線に沿ってずーっとのびている様子はすごく違和感があった。
確かに人を守ってくれているのかもしれないが、近づけばそれは物理的にも心理的にも壁だった。閉じ込められてしまった気がした。
建設当時たくさん議論されていたが、果たして海を隔てることが正解だったのだろうかと改めて感じた。
現在、海に襲われた場所は整備が進み、道路ができ建物も増えた。街を見渡せば綺麗に整理され回復してきているように感じる。
だがあの日の前に戻ることはもう無い。街並みも、人々の心も。またいく年か先にやってくる"災厄"に心のどこかで怯え続けている。
恐ろしかった海は今は凪いで静かだ。
自分は、この穏やかな海がどうかできるだけ長い間続いてほしいと願っている。三陸の海は美しい。
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出典:『荒地の家族』佐藤厚志
新潮社