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反復と光と感情、生きるためのさよなら-サカナクション『さよならはエモーション』MV考察



〝さよなら〟という言葉に、私たちは一体どんな光景を想像するだろう。

多くの人にとって、日常的に溢れかえっている〝さよなら〟に関してだけいえば特別な意味はそこになく、今はこの言葉に昔ほどの刹那性や永遠の効用はない。二度と会えない、と思って他者にこの言葉を発する人を、日常生活ではなかなか見かけない。
また近いうちに会えると信じているし、何か予測不能な事態が起こらない限りその約束は守られる。それによって〝さよなら〟はLINEメッセージで送れるほど軽量化した言葉になり、それは同時に「また今度会おう」という意味も付随するようになった。

サカナクションのヴォーカル・山口一郎は、そんな〝さよなら〟が昔のそれとは違ってきていることに言及した。私も彼と同じように感じる。〝さよなら〟が飽和する世界になってきている、と。
緩やかに空中分解していく言葉たちは、ゆっくりと反復運動をし始める。突き抜ける永遠を失ってしまった〝さよなら〟は、同じ距離を行ったり来たりして、その先に進めないでいる。

『さよならはエモーション』のMVは、そんな言葉の反復運動に呼応するかのように身体も繰り返し同じ動きをしてしまうヴォーカル・山口一郎と、彼のいる世界を形作る反復されたものたち、時折はっと我に返ったように針を進めさせる時計の針や影の共存が描かれたものである。

サカナクションが音楽にするものたちとは、決して無意味なものではない。題材としているものは、この世界に漂流している無形のものだったり概念だったりと抽象的だが、その実体を掴みかけた時に、心に一陣の風が吹き抜けたような感覚を得る。

すなわち、この曲もただただ無意味に反復を繰り返しているわけではない。反復することしかできない山口を、正しい時間の進みの中で生きる山口が傍観しているのはそこから何かを見出し、反復世界を抜け出そうとしているからだ。

ある一定の物体運動で温められるエネルギーとは一体何なのか?
それは曲タイトルの述語にもあたる〝エモーション〟の事ではないだろうかとも、私は考えた。


『さよならはエモーション』MVは、ヴォーカルの山口(以下、主人公とする)が誰かに別れを告げたあとからスタートする。

「そのまま
深夜のコンビニエンスストア
寄り道して

忘れたい自分に缶コーヒーを買った
レシートは
レシートは捨てた」

歌詞の中でいう「忘れたい」とは、感情の悔恨であり「捨てきれない」感情であるのに対し、「レシート」という物体は主人公に造作もなく捨てられる。この相反したふたつのコントラストに、まずはっとさせられる。
主人公はそのまま建物に入っていき、そこで反復運動を繰り返すもう一人の自分に出会う。
そこでは影も時計ももう一人の自分と同じように行ったり来たりを繰り返して、閉鎖的な空間の中に乾いた濃い空気が閉じ込められている。コーヒーの入ったマグカップを口に運ぶが、いつまで経っても飲めない。思いつきのダンスだって、その世界ではまるでそうするのが正しいともいうように反復される。
正直、見ているとだんだん居たたまれなくなってくる(この時、踊っているのは自分なのだという錯覚さえおぼえる)。
時間は進まない。それは一種の永遠にも思え、高尚の姿にも似てきながら同じ行動は繰り返される。

その姿をじっと見ていると、やがて〝さよなら〟という言葉は本来、そんな世界を産み出してしまうほどに強烈な感情であり、人が乗り越えられない感情の起伏をはらんだ言葉なのだ、という考えが浮かんでくる。

「忘れてたエモーション
僕は行く
ずっと深い霧の 霧の向こうへ」

そう、私たちは「忘れていた」のだ。
記憶のそばを通り過ぎていた数々の〝さよなら〟を思い出す。いつの間にこんなに感情が失われてしまっていたのか、と気づく。その向こうへ行くには、立ち込める霧の中に光を差し込み、進んでいかなければならない。刹那の別れが永遠にも感じられる瞬間をおそれ、原始的な怖さゆえに本能が忘れかけようとしていた〝失うこと〟への恐怖。
それが自分自身を反復させ、部屋に閉じ込めていたのだ。

手紙も書けない。コーヒーも飲めない。おかしなダンスを踊り続ける。
主人公は『さよならはエモーション(感情)』だということに気づき、感情を受け入れて時間の流れに従い生きることを決める。いつまでも完成しない手紙に流動的なインクをこぼし、ドアの向こうに行けなかった自分と重なり、外へと出る。

「さよなら
僕は夜を乗りこなす
ずっと涙こらえ」

「忘れてたこと
いつか見つけ出す
ずっと深い霧を抜け」

その先にまた会えるということのない純粋な別れを乗り越えるということは、容易なことではない。必ずさまざまな種類の感情がつきまとい、己の身体を静止した時間の中に引き止めようとする。だけれど、いつしか涙を堪えながら夜に光を差し込ませなければいけない。
大小や重さ軽さに関係なく、本来ならば〝さよなら〟には等しく感情があるべきだったのだ、ということ。そして、人は感情なしに生きられないということ
人は永遠に夜行性でもいられなければ、静物にもなれない。生きていくことは静脈と動脈を使い、血をはこび、心臓を動かして光の中を動き回り、感情を受け入れなければいけない、ということなのだ。

この曲は〝さよなら〟をエモーションとすることが出来ない人、いつしか感情が薄れ、〝さよなら〟に何とも思わなくなってしまった人、もしくは反対に今とても感情的になっていて、〝さよなら〟を受け入れられず反復を繰り返している人、
そんな人たちに向けて発信された曲なのではないかと思う。

これからの季節で、その先の人生で〝さよなら〟を口にすることがあるなら、瞼に焼きついた反復に埋め尽くされた空間、それと光の切り拓いた霧の向こうのことを思い出してみようと思う。
エモーションになって、少し声が上ずってしまうかもしれない。

その時、私はどうしようもなく人間になっていることだろう。

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