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自分を語れていない自分語りの意味

最近ふと考えたことをざっと
まとめる。
5分ほどで終わるはず。

自分語りのねじれについて

ブログや日記を無差別に読んでいくと
自分語りのこのねじれた側面に気つく。

それは、書き手が本当の自身から
語ることなく
虚しく表面的なことで終始する
自分語りのことである。

自分が書いたものにも
見知らぬネット上の人が残したものにも
この現象がよく当てはまると発見した。

どんな心の声でも
一度文章の形に書き残すと、
そこには仮定された他者の目線が
介在する。

例えそれが
未来に読み返す自分だとしても
今の書き手とは別個の目になる。

そのためか、
この他者の目を気にした不純なものが
挟雑物として多分に入り込み、
その人の深いところにある本音が
完全に埋もれてしまうこともしばしばある。

しかし、どんな人でも
深いところの本音は感動的である。
あらゆることを気にして取り繕うと

なぜか世間の通念や借り物のノイズ、
イデオロギーや歪んだ認知が生んだ
自己憐憫、傲慢さ、醜悪さ、欲深さなどが
却って前面に出て跋扈する。

でも今はこのことの
ポジティブな側面に着目した気づきを
述べたい。

自分語りを批判する世間の声は多く
そして自分語りは前述の構造があるため
偽りの醜悪な部分が出やすく、
批判する標的になりやすい。
(ただし、批判する者が批判したくなったのも
心のうちにその醜悪さに対応し共鳴する部分を所有しているためで、ややこしい)

でも世の中のすべての表現は
自己から出発するもので、
自己表現が深い場所へ到達すると
普遍性ある芸術の美しさが顕現する。

その本質は自己表現の欲求の純化
または治癒である。
表現は最終的には無私の形で大成するが
原動力となる欲動は自分から出発する。
主体なし表現は当然主体性がない。

最初から自分自身の欲求を
飛ばそうとするからおかしくなる。

自分無き自分語りは、
当然借り物やすり込みなどのノイズだけで
構成される。
それは無効だけでなく不快感を煽る
フランケンシュタイン文字列の墓場である。

時々こういう残念なことも見かける。

自己の意識や気づきが完全に消え失せた
ノイズが喋るゾンビの書き手が
確固たる安定感と
揺るがないアイデンティティで
ノイズを長らく再生産する一方、

自分語りが醜悪なことに変質する現象を
目の当たりにして他者と自身の不興を買って
苦しんで筆を折る書き手がいる。

一般的に言われている暴論である
図々しさを持つべきとか、
自分語りはダサいとか、
そういうものに主導権を持ってかれては
変な論理が通用してしまうと感じる。

本当の美しい本音には
害や攻撃性や強欲が入り込むことはない。
自身と他者とつながる普遍的な感情の
表出であるだけのことにすぎない。

自己表現が正常に流れ出すまでの
自分語りは不純物の濾過工程と
考えてみるのはいかがだろうか。

言語をうまく話せていない幼児は
自分の欲求を正しく表せず、
癇癪を起こしたり、逆のことを
言ったりして親を困惑させる。
でもそれは発達の喜ばしい過程であり、
悪意もなければ、
見下す理由や非難するべきではありません。

言語習得中の異邦人にも同じことが言えて、
自分語りで自身の深くにある表現を
探索する途上にある書き手も然り。

まとめ

自分語りは悪いことではなく、
すべての表現の起点である。

気持ちを書き出すことを
恥じるべきことではないし、
途上に自分と向き合う苦しさと
向き合うほど自身の輪郭がクリアになる。

自分語りの終着点は
他者に羨望の目を向けられるいい作文や
支持される経験ではなく、
自分が感じた本音の語りである。

内容を鑑みて非公開の形や
フィクションの形をとっても
文章には構造上他者の目が介在するため
ノイズで自分語りが狂ってしまうことが
多々あるが、気づいたら前進である。
もっと本音に近づけるための
純化のプロセスで心を見つめる機会と捉えて
継続することで、
いつか大きな喜びと結実する。

自分にとって不快な自分語りを見たら
スルーして忘れること。
攻撃したら心にある
不純な泥沼が活性化して
リアル泥沼を作り出すだけだ。

技術の巧拙問わずに
他人の自分語りの世界観が今の自分と
異なるため受付ないなら
なおさら無理して付き合わなくていい。
自分の感覚にNOの烙印を残せるほど
ノイズが増える。

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